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マーチ~伸介から

居間に戻って、アオイとテレビを見始めた。
「おじいちゃん、何を持ってるの?」
アオイに言われて初めて、自分が何かを握っていたことに気づいた。
「見せてよ」
手渡したそれを見て、アオイが驚いている。
それは、40年以上も前のぼくの名刺だ。「岸本伸介」と書かれた右横に、小さな顔写真がついている。
「へえ! おじいちゃんってイケメンだったんだね!」
「イケメンってなんだ?」
「かっこいい顔してるってこと。聞いたことない?」
薄汚れて角もなくなった名刺を、アオイはぼくの手に返してよこした。
「おじいちゃんの頃だと、そうだな、好男子とか、ハンサムとかか?」
「ハンサム! それだね」
「そうか。じゃあ、おじいちゃんはハンサムだったか?」
「うん、めっちゃね」
アオイはしばらく黙ってテレビのほうを向いていたが、ふいに首を回してぼくを見ると、
「それ、おばあちゃんに見せたら?」
と言った。
「見せたほうがいいか?」
「うん。おじいちゃんのことを思い出すかもしれないよ」
「そうだね、思い出すかもしれない。でもさ…」
アオイは怪訝な目で、ぼくの次の言葉を待っている。
「これを見ても、わからないかもしれないだろ? いやなんだ、それがはっきりしちゃうのが。おばあちゃんの頭の中にいるおじいちゃんは、この名刺のときのおじいちゃんなんだ」
「それでいいの?」
「いい。日産マーチのあの人でいいんだ」
「おじいちゃんがいいなら、わたしはいいけどね」
ふふっと、アオイは笑ってくれた。

____________

ぼくは、自動車メーカーの営業マンで、とある私鉄沿線の駅前にあるショールームで働いている。

ぼくはきょう、自分のことを見ている女の子がいることを知った。

彼女はどうやら大学生らしい。店の前を通る時間は決まっていないし、帰りを見かけることはほとんどなかったから。
でも、駅に向かう道すがら、ウインドウ越しにショールームの中をのぞいているのはわかっていた。
ぼくを見ている確信はまったくなかったけど、きょうの朝、同僚の杉山が店の外周りを掃いているときに、通りがかった彼女の独り言を聞いたと教えてくれたのだった。

「あ、いた! 名前、なんて言うんだろう」

彼女の視線の先にいたのが、ぼくだったという。
それ以来、彼女が通る朝が楽しくなった。電話応対をしていたり、書類が溜まっていたりすると気づけない日もあったけど、たいていはデスクに座って彼女が通るのを、ぼくは待っていた。

夏休みに入ると、帰りに見かけることも多くなった。アルバイトの帰りなのか、決まって午後7時すぎに通ることがわかった。
店の営業時間は6時までだったから、ぼくはわざと残業をして彼女を待った。

故意な残業を何日かして、その日はぼくだけが残っていた。
通りがかった彼女を見つけたとき、ぼくは無性にうれしくて、思わず手招きをしていたんだ。
ぼくの手招きに気づいて、彼女は自分を指さした。目を剥いたその顔ったらなかった。本当に驚いていた。

ショールームにおずおずと入ってきた彼女は、学生だから車は買えないと言って、見学客名簿にどうしても記入したがらなかった。そこでぼくは一計をめぐらし、先月開催した試乗会でのアンケート用紙の残りを持ち出してきて、回答してもらったのだった。

名前はなみえ、自宅の車はトヨタカローラ、日産で好きな車種はマーチ、車の購入予定は当分ナシ…云々。4月から社会人で、志望する出版社に就職が決まったけれど、通勤が片道2時間かかるって嘆いていたっけ。

この出来事があった後も、彼女が行き帰りにぼくを見つけて手を振る程度で、それ以上に仲良くなったわけではない。
それが4月になったとたん、彼女はぼくの前にまったく現れなくなった。仕事先まで片道2時間かかるということは、ショールームの前を午前7時には通り過ぎているだろうことは容易に想像がついた。帰りはどんなに早くても、夜8時をまわっているだろう。
毎朝、毎夜、間違いなくここを通っていることはわかっているのに、けっして会えない彼女に、いとおしさをぼくは感じ始めていたのだ。ぼくを見つけては、うれしそうに手を振ってくれた彼女の笑顔が、とてつもなく恋しい。ぼくの思いは募るいっぽうだった。

ディーラーの仕事は水曜日が休みだ。
だから火曜の夜に、ぼくは彼女を待つことにした。火曜日はマイカーで出勤して、退勤後にショーウインドウ脇の道路に停めて、ぼくは終電まで待った。すぐにでも彼女に会えると信じていたのに、1週目も2週目も空振りに終わった。
そして3週目の火曜の夜。ついにぼくは彼女を見つけた。

車から降りて近づいたぼくに、彼女が気づいたときの顔ったらなかった。
「岸本さん? どうしたの?」
そう聞いてきた彼女の顔は、ぼくが初めて手招きをしたときの、目を剥いた顔そのままだったよ。
「あなたを待ってたんだ。3週間も待ったよ」
「ああ!」
大きなため息ともつかぬ声を発して、彼女はその場にしゃがみ込んだ。つられて、ぼくもしゃがみ込んだ。思い人に会えたという安堵感が、一気にぼくに押し寄せてきた。
「車に乗って。家まで送るよ」
彼女は素直にぼくの助手席に乗ってきて、
「ありがとう」
と、まず言った。
それから週刊誌の編集部で働いていること、火曜は校了日だからいつも始発で帰ってくること、今週は休刊なので午後7時に上がれたことを次々と話してくれた。
「ものすごい仕事なんだね」
「週刊誌はサイクルが短いから、ちょっと大変」

彼女の家まで、わずか5分のドライブのあと、彼女は降り際にこう言ったんだ。
「真っ暗なショーウインドウの前を通るたびに、さみしくて。岸本さんが毎日ここにいるのを知っているのに、会えないのが悲しくて」
「ぼくも同じだった。だから、あなたを待った。3週間も…」

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