2024年 3月21日〜3月31日


3月21日 


「ラーメンっておいしいですよね!」


「それってあなたの感想ですよね。」


「1000人に聞いたところ、999人がラーメンはおいしいと答えましたよ!」


「999人が答えたから信用できるというのはあなたの感想ですよね。」


「数字は絶対評価だから信用できますよ!」


「数字が信用できるというのはあなたの感想ですよね。」


「数字が信用できなかったらあらゆる社会のシステムが狂いますよ!」


「数字が信用できるという感想の人が集まって社会を作っているのだから当たり前ですよ。結局数字を信用しているのはあなたの感想ですよね。」


「数字は言語のような社会的なものではなく、科学の領域であるはずです!」


「科学もあなたの認識でしか捉えられない以上、あなたの感想ですよね。」


「そんなことを言ったら何の正しさも証明できないじゃないですか!」


「正しいか正しくないかを判断するのはあなたでしかないので、科学を持ち出そうが全てあなたの感想ですよね」


「僕はラーメンがおいしいと言いたいだけなんですけど」


「"ラーメン"もあなたの感想ですよね。」


「ラーメンはラーメンですよ!」


「"ラーメン"とは小麦粉や鶏ガラやメンマの集合体を表した概念でしかありません。ラーメンの具材単体を見ても、あなたはそれをラーメンとは言わないはずです。では調理工程のどこからそれはラーメンになるのですか? それを定義してるのはあなたですよね? つまりラーメンをラーメンたらしめているのはあなたの感想ですよね。」


「さっきからあなたの感想ってなんなんですか!」


「"あなた"もあなたの感想ですよね。」


「もう怒りました!帰ります!」


「ラーメンと同様、"あなた"も細胞や臓器の集合体を表した概念でしかありません。人間の細胞は4ヶ月で全て入れ替わるそうですよ。なのになぜ、4ヶ月前の"あなた"と、今の"あなた"は同じと言えるのですか? そう定義しているのはあなただけです。あらゆる物質を分解すればそこには何も残りません。全ては認識によるカテゴリー化です。"あなた"もあなたの感想ですよね。"おいら"もおいらの感想でしかないように。」


「               」


「今おいらにはあなたが見えていませんが、そもそも"おいら"や"あなた"は存在していません。世界は全て抽象。概念。主観です。それがわからないから、ありもしない対象に怒ったりするのです。ああ、おいらの周りには何もない、おいらですら存在しないというのに、この寂しさはなんだろう。何に執着していたのだろう。おいらはいつでも、おいら、おいら、おいら、主語にこだわってしまう。術語だけで、動詞だけで生きていけたら。ここに何かが存在するとすれば、そんな形ないものだけなのだから」


3月25日

トム・ブラウンがM-1敗者復活戦において、死体で音楽を奏でるネタをやっていた。死んだ布川さんの身体は一切動かないのに、みちおさんの外的な力が加わって一定のリズムを刻みだす。



このネタの布川さんを見るたび、会社にいるときの自分みたいだと思う。やる気は一切ないのに、誰かからの命令や同調圧力で仕事できるヤツのムーブをしてしまう。無抵抗にハーモニーに組み込まれていくさまはまるで、楽器となった骸である。

平日はただ疲労を溜め込む容器と化す自分も、退勤すると自我を取り戻す。酒が苦手なので帰宅後は即エナジードリンクを飲む。このときの感覚は、上記の漫才の大オチである「心臓を取り戻すシーン」に酷似している。カフェインの作用で鼓動だけは活発さを取り戻し、そのテンポに追随して身体も復活していく感じ。

まあ、現実には大オチなどないので、ここで元気を出したところで翌日には首をへし折られてしまう。そっちがへし折ったくせに「大丈夫ですか!?」とか聞いてきて、しかもその直後に攻撃を重ねていく異常さも会社に似てないか。


3月26日

言葉って傘みたいだと思うことがある。

ベタな例として、日本語では「蝶」と「蛾」を言語的に区別しているが、フランス人は「蝶」も「蛾」を「パピヨン」という単語で一括りにしている。

つまり、対象物と言語の結びつきには必然性がない。カオスの中に生まれたわずかな傾向(この例で言えば「この世界にはなんか羽がでかい虫がいっぱいいるな」程度)にラベルをつけ、世界を認識しやすくしているだけである。

それって、「蝶」とか「蛾」みたいな概念を守る傘みたいじゃないですか?

で、傘が集まった文章は、屋根みたいじゃないですか?

傘は各々が持つ道具でしかないが、屋根は大きければ大きいほど人を集める効果がある。

聖書のもとにはキリスト教徒が集まるし、『ノルウェイの森』にはハルキストが集まるし、『死ぬこと以外かすり傷』のもとには箕輪編集室のメンバーが集まるのである。傘だけではしのげないほど世界のカオスが増したとき、強固な建造物が人々を支えることになる。

つまり、まだ言葉になっていない概念はそのまま雨ざらしの荒野に放置されていることになる。そんなものをわざわざ取りに行くのは怖い。知らないものに近寄りがたいのは、その場所に耐えうる傘を持っていないからである。

コロナ禍に陰謀論が爆増したのも、人々が何とか風雨に耐えようとした結果だと思う。社会不安が広がると、やたらめったら新しい概念や言葉を作ってそれを乗り越えようとする。大した強度もない建造物が乱立していく。そこに逃げ込んだとて、すぐ吹き飛ばされるだけなのに……。


ところで、この建造物の強度というのは必ずしも論理的な正しさを意味しないと思う。全く意味はわからないけど何か芯があるな、と思わせる一文もあり、それを放つ力が文才と呼ばれるのだろう。たとえば『感謝カンゲキ雨嵐』の「Smile Again 泣きながら生まれてきた僕たちはたぶんピンチに強い」とか。泣きながら生まれてきたんなら弱いだろ……。あと「たぶん」て何だよ……。なのに何でこんな元気が出るんだ……。


3月28日

一般に自己啓発は「(ポジティブな)変化」を喧伝しつつ、その変化とは「お金を稼ぐ」「話術を磨く」など既成の価値観の内部におけるステータスやスキルの変動にすぎなかったり、あるいは「組織を変えるのではなく自分を変えろ」といった、現状に納得するための技術になりがちだったりする。たしかに、こうした「自己啓発」はときに有用であるだろう。だが同時に警戒しなければならない。「自己啓発」されていくとき、私たちはだんだんと、社会に都合のよい「人形」に姿を変えてはいまいか?

—『闇の自己啓発』江永 泉,  木澤 佐登志, 等著
https://a.co/grWjLH1

仮に「仕事術」に「成功」の秘密が書かれたとして、その「成功」の先に「幸せ」が待っているのか──その点こそが本来語られるべきなのに、と私は思っていたのです。ともすれば、その「仕事術」は画一的な「成功」の形を押し付けて、「幸福」のあり方を狭めている可能性さえある。であるならばそれは、皆さんの助けになるどころか、むしろ大きな罪を犯していると言ってしかるべきだとさえ、私は思っています。

—『ありえない仕事術 正しい“正義”の使い方』上出遼平著
https://a.co/anBVZIA


ビジネス書のフリをしてアンチビジネス書的な内容を展開する、といった本を立て続けに読んでしまった。建て付けが似てるだけで全く違う本です。両方ともサイコーです。

やはり本屋のビジネス本コーナーを訪れても「これでビジネスがうまくいったとて」と思ってしまう。ジャンルそのものの虚しさというか、社会が後付けで作った幸福像に乗っかる方法は分かっても、それは別に「人形」になる方法だし……と思う。

上記のようなアンチビジネス文体が流行ってる時点で、僕のようなビジネス書アレルギー患者は増加しているのだろう。となると、「自分はなんで生まれてきたのか?」とか「そもそも幸福とは何か?」といった、人生の根源に関わる問いへの関心も高まってきているのだろう。自分も社会人経験を増せば増すほど、哲学っぽい分野への興味が増している。学生時代はなんの役にも立たない(だから好きだったけど)と思っていた学問だが、普通に今を生きる上で役に立ってしまうのではないか? と思う。

それはそれで中二病的だと笑われそうだが、社会に出てから人生に登場してくる悩みなんか大して重要ではないだろう。頭がいい人の話し方とかより、「なんで人は働くのか」とか「そもそもなんで生きてなきゃいけないのか」とかの方が考えがいがある。なんだ頭がいい人の話し方って。せめて「頭のよさ」を定義して、頭がいい人そのものを目指せばいいのに。話し方だけ取り入れればいいって姿勢が……まあ、一生そんなんやってればいいですけども……。


しかし真の幸福は、彼はこれを捨て去らないし、捨て去ることもできない。彼の幸福は彼の生命と同じように彼自身と一つのものである。この幸福をもって彼はあらゆる困難と闘うのである。幸福を武器として闘う者のみが斃れてもなお幸福である。

—『人生論ノート(新潮文庫)』三木清著
https://a.co/2ogsbRI


3月29日

寝起きの状態ほど気持ちいいものはない。意識が朦朧として、現実はひとつも把握できず、まともに立つことすらままならない。薬物の経験はないが、合法的な手段の中で最もトリップ状態に近づける体験だろう。

しかしそんな状態が続くのは1分程度で、あとは明瞭に仕事や生活を認識させられてしまう。5時間寝て得られる1分のトリップ。牛肉で言うシャトーブリアン。この部分のために生きていると言っても過言ではない。

寝起きの素晴らしいところは自他境界が曖昧になるところだ。起きたばかりの瞬間は世界から自分が剥離されきっておらず、どこから布団でどこからが身体かはっきりしない。自意識が存在しない。現実が地獄めいているのは常に自分を意識させられるからだ。他人に自分を評価されたり、それによって自分と他人を比べたりするからだ。だから今すぐもの言わぬ肉塊になりたいのに、人は気付けば我を持った主張を抱いてしまう。対して寝起きの1分間だけは、何の煩悩にも縛られない、一種の解脱を経験できる。


3月31日

10月って、7つの大罪が全部ないですか?

7つの大罪とは言わずもがな、キリスト教世界で信じられた、人間を罪に導く感情のことだ。「憤怒」「嫉妬」「強欲」「怠惰」「傲慢」「暴食」「色欲」。10月はこの全てが現れる月である。

1番わかりやすいのは「暴食」だ。「食欲の秋」を謳った広告代理店丸出しのキャンペーンが展開され、さまざまな秋の味覚が市場に出回る。

しかし、ここで出回る秋の味覚のは全て、めちゃくちゃ食べづらくないだろうか?

焼き芋は皮を剥くのがダルいし、サンマは綺麗に食べるのが面倒だし、月見バーガーは具がこぼれるし、機能性に関しては一切魅力がない。

それをもってしても食欲が湧いてしまう。つまり完全に理性を失い、「暴食」の感情が剥き出しになっているのだ。

次に分かりやすいのはハロウィンである。特に都会ではナンパやホテル連れ込みが多発し、「色欲」の渦が形成される。そんな治安の悪化に対し警察たちは「憤怒」するわけで、罪の2枚抜きが達成される。

残る4罪だが、たった1つのイベントで全て満たすことができる。ハロウィン以上に罪深いイベントがあるのだ。

それは、地味ハロウィンである。

ハロウィンは仮装をすることが目的なので、特に人と差異を見せつける必要がない。いつもと違う自分になれれば満足であり、過度に他人を意識することはない。ドラキュラや魔女など、量産型のコスプレでも何ら問題はない。

対して地味ハロウィンは、他人に対抗して角度を見せなければならない。何に仮装するかで着眼点の鋭さを競い合うので、過剰に他人の評価を意識することになる。仮装するだけでは満足できず、他人の承認をもって初めて成立する側面がある。

これは完全に「強欲」だろう。地味ハロウィンは明るく騒がしいハロウィンに対抗してできたイベントだろうが、欲望の反対側にはまた別の欲望があるだけだ。

また地味ハロウィンという名の通り、この催しに派手な準備はいらない。つまり、楽して多大なる承認を手に入れるチャンスでもある。ダイソー程度の外出でバズれるかもしれない。「怠惰」な人々にとっては垂涎ものである。

仮装をした時点では満足が手に入らない地味ハロウィンは、「嫉妬」の温床にもなりえる。こちらの方が着眼点が鋭いのに、勇気を持ってツイートしたのに、ダイソーまで行って小道具を買ったのに、なぜあちらの方がバズっているのか。そう悔しがる方々が何人もいるだろう。人はなぜ嫉妬するのか。「傲慢」だからだ。自分への執着が強いから、自分の思い通りにならない状況が耐えられないのである。


ところで、7つの大罪が全て揃う月はもうひとつあって、それが4月です。ヤリサーの勧誘が活発化して色欲は咲き乱れるし、"新社会人へのアドバイス"を語りだす大人たちも傲慢さを露呈してしまいます。「花見」というのはイコール「ゴミ見逃し」なので、目黒川を汚しまくる観光客たちに自治体は憤怒します。太古より「花より団子」なんて言葉で春の暴食は形容されています。あと、エイプリルフールってたぶん面白がってる層が地味ハロウィンと同じですよね。本当はお笑い芸人みたいなセンス合戦をしたくて仕方ないのに、「お笑い」を冠したフィールドで戦う勇気はないから、季節性イベントの看板を借りている感じ。とにかく人間の罪はいつの時代も変わらないんですね。もちろんこの人間には、自分も含まれますが。



















サポートは生命維持に使わせていただきます…