2024年1月1日〜1月10日


1月1日

"見せよう"とすると、意図とは逆の結果を招きがちだ。

美しく見せようとしてるのが汚い。賢く見せようとしてるのがバカ。カッコよく見せようとしてるのがダサい。ダサく見せようとしてるのがカッコいい。バカに見せようとしてるのが賢い。汚く見せようとしてるのが美しい。

じゃあもう何も作為的なことはせず、自然体の俺でぶつかるぜ! というのは綺麗事でしかない。何の意図もなく他人と対峙することはできない。他人に自分を差し出すときは、嫌われないために、もしくは好かれないために、どこかに演出を加えざるをえない。"こう意図したらこう思われるからそれを意図しよう"みたいに、極限までメタを積み重ねていく。単なる視座の高い主観がハリボテの客観視となり、ハリボテの自然体を作っていく。意図を張り巡らせながら、いかに意図していないフリができるか。それが社会で、それがコミュニケーションなのではないでしょうか。

明けましておめでとうございます!


1月2日

年も明けたのに紅白の話をしますが、ブラックビスケッツの『タイミング』って歌よかったですね。

よく人の「中身」が好きになると言うが、具体的に「中身」って何なんだよと思う。優しさとか知性を指すのであればそれは外からわからないものだし、結局人は外身しか見てないはずだ。人間の評価における「中身」って「容姿以外」くらいの意味しかない。

その、絶対に辿り着けない「中身」にギリまで近づける漸近線が「言葉」とか「振る舞い」とかだと思うが、「タイミング」ってなかなか思いつかない。「空気」や「雰囲気」にも言い換えられるかもしれないが、「タイミング」という時間軸に絞り切ってしまう胆力と、そのシンプルさが醸す説得力!

最近、お笑い芸人のラジオより、(喋りが本職ではないという意味で)素人のラジオを聞くことが多い。

上記は10年くらい前のツイートで好きなものを紹介していくだけのものだがべらぼうに聴き心地がいい。もちろん話が上手いわけではない。なのに何か引き寄せられる。あと紹介されているツイートも、いわゆるお笑いのセオリーに沿ってはいないニュアンスのネタツイがほとんどなのに全部面白い。なんてフシギなチカラ。


1月3日

今年は正月から地震があったが、「お正月なのに地震が起きた」の「お正月なのに」の部分って、あまりにも人間の勝手すぎる。不倫した芸能人に「信じてたのに!」とか言う人みたいだ。不倫したのは芸能人が悪いが、信じてたのはそっちが勝手に期待しただけだろう。マジ恣意。期待とはカフェインみたいなもので、活気を与えることはあっても基本毒性の感情だ。「正月」における「何も災害は起きないはず」と言う信頼感は、芸能人の清楚イメージと同様メディアが作りだしたものである。知らない間に期待してしまうような洗脳がなされているのだ。

まあ、正月に期待してようがいまいが地震はイヤで、早く日常に戻って欲しいので、人生で初めてしっかりめの寄付をしました。祖父からお年玉をもらったとき「これで彼女とデートでもしい!」と言われてムカついたのでその分全ツッパしました。

HIKAKINをパクってこの日はYahoo!基金に募金しましたが、今は公式の義援金口座があるのでそっちの方が中抜きの心配がないかもしれません。


自分は根っからの善人ではなく、寄付したあと若干後悔はしましたが、寄付した後若干後悔するような人間のために金を使うくらいなら寄付した方がいいので結局納得しました。こういう「全く善人ではない自分に触れる瞬間」って、生きてるー!って思いませんか?

そういえば、東日本大震災のときは親が勝手に自分のランドセルを寄付していた。自分はインドアすぎてランドセルが無傷のまま卒業したので再利用可能な状態だった。ただ、ランドセルって別にリュックで代用できるし、そんなにいらなくないか? 「伝統に則っただけで利便性の本質を失っている」という意味で、千羽鶴寄りの寄贈品じゃないか? どこかの子供が前に背負って、鼓笛隊ごっこでもしてくれてたら良いですが……。


1月6日

実家に差出人不明の手紙が来ており怖いなーと思っていたら、昔の自分からだった。中3のとき書いたタイムカプセル的なものだった。

なんか、10歳の自分から来たとかならまだ可愛げがあっただろうが、15歳ってもう大人として仕上がってるので全然可愛くない。

そしてこのときの自分が問うている「多くの絶望にめぐまれる度に何かを悟って開きなおり、無理矢理結果オーライにもっていくような人生を送っているでしょうか。」に関してですが……


その通りだよー!

大学は東京に進学希望出すけど、「東日本は放射能に汚染されている」って親に止められて京都に行くことになるよー!

でもそこで楽しいキャンパスライフは送るし、それを「無理矢理結果オーライにもっていった」と表現するなら、そうだよー!

就職は就活が地獄すぎて、1番最初に内定出ただけの、特に好きでもない会社に入るよー!

でもそこはブラックではないし、よく考えたら他に入りたい会社とかないし、結局3年は転職しないよー! それを「無理矢理結果オーライにもっていった」と表現するなら、そうだよー!

矢が刺さった場所にあとから的を描き足して、BULLだったことにするような人生だよー! まっすぐ努力してトップを狙うより、そこそこの結果だけ出してあとは自分が妥協した方が効率いいもんねー!

でも、別に人生の選択とかじゃなくて、些細な人間の動作ですら全部「無理やり結果オーライにもってった」だけだと思うときがあるよー!

たとえば今履いてる靴下だって、本当に自分の意思で選んだのかなー!? もちろん何か理由があって選んだのかもしれないけど、それって後付けじゃないかなー!? 選択自体は無意識で行っていて、そこから意識的に言い訳をくっつけただけ、とは言えないかなー!? つまり、矢が刺さった場所に、あとから的を描いてるだけじゃ、ないかなー!

人生とか言っても結局、靴下を選ぶ程度の行為の積み重ねだし、みんな、流れ着いた結果に無理やり言い訳くっつけて折り合いつけて、ズルのダーツしながら生きてるんだと思うよー!

あとすぐ「絶望」とか言っちゃうクセは、ひとつも面白くないからやめたほうがいいよー!

25の私からは以上でーす!


1月8日

「恋愛の形は人それぞれだから…」とはよく言うけど「友情の形は人それぞれだから…」とはあまり言われない。これって、友人関係はそもそも多様なものだからいちいち指摘されないだけだと思う。

「彼女にあげるプレゼントといえば?」と聞かれれば、ネックレスとかアルバムとかある程度想定回答があるが、「友達にあげるプレゼントといえば?」と聞かれても「友達によるだろ」としか言えない。それなら前者の質問だって彼女によるはずなのだが、なんかマニュアルみたいなものができてしまっている。

「カップルYouTuber」というジャンルはあるが、「フレンドYouTuber」とは言わない。友達だけで作ったコンテンツは雑多すぎてまとめられないが、恋人同士で作ったものはそれだけで一つのジャンルに堕してしまう。

つまり、恋愛関係はパターンが決まっており、友達→恋人への変化で関係性は画一的になっていくのではないか。

そう考えると、(基本的に)恋愛の延長にある家族関係はもっと単調だろう。自分の家庭は家族全員が別居しており、たまに「いろんな家庭があるもんね〜」と勝手に多様性サンプルにされる。それは別にいいが、この程度の逸脱でユニーク扱いになるほど、家族のイメージはワンパターンなのかと思う。カップルYouTuberも相当ワンパターンだが、ファミリーYouTuberの個性のなさはすごい。ファミリーYouTuberって出産か卒業しかしてなくないか。

これってめちゃくちゃ雑に言えば、「人間関係は深まるほどつまらなくなる」と言えないだろうか。もちろん、テンプレがしっかりしているほどそれを破る面白さがあったりはするが、友人→恋人→家族になるほど関係が型にハマっていくのは否めない。

となると友人関係が1番多様性があって面白いのではないか。いや、多様性だけで考えるなら「知り合い」くらいの関係が1番楽しめそうだ。嫌な面は見ずに、ただ各々の情報や近況を交換し合うだけの関係。具体的に言うと、Twitterで相互フォローだが会ったことはないみたいなものである。結局このくらいが1番ちょうどいいから、僕は12年もTwitterをやっているのではないか。


1月10日

仕事で「ASAPで恐縮ですが……」と言われ、意味を調べてみたら「アズ・スーン・アズ・ポッシブル」の略だったときはさすがに戦慄した。もうこんなこと言いたくないのだけど、恥ずかしくないのか? あなたが子供のころ憧れた大人の姿はそれか? なぜもっとシンプルな言葉で生きられないのか?

また最近は、カタカナ語だけでなく日本語の表現も気になる。「忙しい」を「逼迫している」という人は何なのか。無駄に固い言葉を使うことで、輪をかけて「やってる感」を演出していないか。もしくはしんにょうのオタクなのか。その他「(案件を)走らせる」「(案件を)ぶん回す」「(案件を)巻き取る」とかも謎だ。案件はプラレールでもハンマーでも納豆でもない。

一方で、自分だってビジネスマンなのに、こんなにもビジネス用語を嫌っているのは不健全じゃないかとも思う。中二病がイタいのは大人なのに中二みたいなことを言うからであり、中二そのものは中二病にはなりえない。同様に、ビジネスマンがビジネス用語を使って何が悪いのだろうか。ビジネス王国ではビジネス語が共通語なのだから、郷に従った方がスムーズに働けるはずだ。

昔から自分はこういう「界隈」に染まるような振る舞いを避けてきた。なにかのグループに属しても、そこで長になったり、「〇〇界隈は〜」とか自称したり、集団でしか使わない言葉を使ったりするのはなんか負けだと思ってきた。こうして常に熱のあるコアからは距離を取り、ジャストフィットの感覚を得ないまま、病めるときも健やかなるときも違和感とともに生きている。なんの恥じらいもなくビジネス用語を使える人って、自分の属する集団に似合っている人だから生きてて摩擦が少なそうだ。その洗脳され具合が羨ましい時もある。








サポートは生命維持に使わせていただきます…