2024年1月11日〜1月21日


1月11日

子供の頃『シャキーン!』というNHKの番組を毎日見ていて、なかでも音楽のコーナーが好きだった。

『シャキーン!』で流れる曲は言葉遊びに本気を出したような歌詞が多く、普通の子ども向けソングとは一線を画していた。音楽というよりは歌ネタに近いような、でも歌ネタにしては面白さがテキスト寄りというか、とにかく「シャキーン!っぽい歌」としか言いようのないジャンルだった。


おじいちゃんは言う
思い立ったらすぐにやれ
人の心は変わりやすいから
「善(ぜん)は急げ」だよと

お母さんは言う
何でも準備が大切よ
あとで困らないように
「急がば回れ」よと

どっちが正しいんだろう?


『住人十色』は意味が反することわざをとにかく並列する歌だ。「ことわざってなんか正論感出してるけどめっちゃ矛盾してる」と気付く発想もすごいし、これで1曲作って放送しようという心意気もすごい。この曲は終盤こんな歌詞で締めくくられる。


みんながいろんなことを言うけれど
君が選んだ それが答え
十人十色(じゅうにんといろ)
いろはにほへと!
君しだい〜!!


「ことわざ」とひとくくりにしても多種多様で、中には矛盾したものもある……という意味のことわざもある、という綺麗なオチ。オチがある曲ってなんだ……。


餅を持ちあげて
蕪にかぶりつき
蜜を見つめて
歌をうたうんだ

街を間違えて
鍵を嗅ぎ回り
ニラをにらんで
歌をうたうんだ


『歌をうたうんだ』は「名詞+動詞」のダジャレのみで歌詞を構成している。かなりしょうもないけどかなりすごい。「しょうもない」って、シンプルで洗練されているとも言えるのだ。巷でよく見る「本当に賢い人は簡単な言葉だけで説明できる」という意見には全く賛同できないが、「本当に面白い人は簡単な言葉だけで人を楽しませる」くらいは言っていいと思う。

こういう曲を聴いていると、「世の中の曲って、もっとシャキーン!みたいでいいのでは?」と思う。中途半端にしょうもない共感狙いの歌詞を書くくらいなら、そのしょうもなさを突き詰めて言葉遊びに終始した方がよくないか? 『シャキーン!』自体もう放送終了してしまったが、僕はずっと「シャキーン!みたいな曲」を欲している。


ちなみに、『シャキーン!』の曲の中で1番狂っていると思うのは『かんじない歌』です。曲だけ聴いてもよく分からないと思いますが、歌詞を読むと意味怖みたいな衝撃がある。本当はPVを見た方がいいのですが違法動画しか見つからなかった。



1月12日

いつで〜もスマイルしようね♪

「私たちはこれで笑います」という同意を取ることで内輪の結束を強める場面では、その内容が面白いかどうかは関係ないから♪

すぐスマイルするべきだ♪

今やっているのは「ノリ」によって観客のいないショーを作り出す共同作業であり、笑わないことは職務放棄を意味するので、そう思われたくないならね♪

いつで〜もスマイルしててね♪

常に冷笑的なポジションを取っていれば、中身のがらんどうさを指摘されることもなく、無知が無知のままやり過ごせるから♪

すぐスマイルするべきだ♪

現実から目を背け、事なかれ主義に加担することと引き換えに、俯瞰した視点と余裕をアピールしたいならね♪

かわい〜くスマイルしててね♪

まっすぐ自分の考えを主張しても、普段何も考えていない人たちにバカにされるだけで、最初から笑って「これはネタで言ってますよ」という雰囲気を出していた方が保身になるから♪

すぐスマイルするべきだ♪

その笑いによって傷つく人や、傷ついても声を上げられないような人なんて、無視してもいい存在だと認識しているならね♪



1月14日

自分はかなり空気が読めないタイプという自負がある。言外の意味を察することができない。

最近も、社内の実績プレゼン大会みたいなのをサボったらガッツリ怒られた。そもそもこのイベントは強制出場とは指示されておらず、「出せる実績があればエントリーしましょう」としか言われていなかった。しかし、これは暗に「毎年大会に出せるくらいの実績は出してください」という目標設定を意味していて、出場しない=今年はなんの実績もない、と捉えられるらしかった。あとで聞いたら社内でエントリーしなかったのは僕だけだったらしい。

別に僕かて残業すれば実績自慢のプレゼンくらい作れたけど、そんな内輪で認められるための大会に出るくらいなら早く帰りたかった。逆に僕以外のみんな、強制されてないのに何を頑張っているんだ。どんだけ給料が欲しいんだ。もしくは「給料に見合った働きをしている実感」が欲しいのか。出した結果より多い報酬をもらってても罪悪感なんかいらなくて、「まあ俺が魅力的だからか……」とか思っておけばいいのに。

オフィスで「早く帰りた〜い!」とか言ってる人はたくさんいるけど、それも言外の意味を含んでいて、本当はみんな働きたくて仕方ないのだろう。役割がないと不安なのだろう。仕事とは、生きる目的がわからずさまよう人たちに一時的なゴールを与える対処療法でもある。



とはいえ、自分のこの空気を読めない言動は、あえて"やりに行っている"部分もあるなと気づいた。キッカケは上記の対談記事である。プレゼン大会に多くの人が出てることくらい、実は何となく予想できていた。それを踏まえた上で、自分の意思でエントリーしなかった。なのに被害者ヅラして、僕は空気が読めない……とか言って弱者ぶっていたのだ。すみません。


TaiTan 品田さんは、メルマガなどで、人の生々しい感情や悪意のようなものに興味あるってときどきおっしゃってますよね。それって何なんでしょう。すごくシンプルに聞くと、なんで人って悪口を面白いと思うんでしょうか。なぜ笑えてしまうんでしょうね。

品田 コミュニケーションというものは、どんな内容を含んだものであっても、ある側面では儀礼的なものに過ぎないですよね。茶番感みたいなものを、お互いに暗黙のうちに了解し合っているというか。悪口はそこにちょっとした穴をあけるような痛快さがあるからなのかな、と。



僕も何となくの空気で「強制とは言われてないけどこのプレゼン大会は出なきゃいけないんだろうな」とは察していた。しかし、暗黙の了解に乗ることが妙に居心地悪く、茶番を壊してみたくなった。

結局プレゼンは出してないので評価は下げられてそうだが、正直、上司の命令を「強制って言われてないです」の一本槍で無視するのはめちゃくちゃ痛快だった。内輪で馴れ合うのも気持ちいいけど、それを壊すのはもっと気持ちいい。


品田 めちゃくちゃわかります。アナーキーに悪口を言いまくるというのは、もはやポジションとしてあるものになってしまっていますよね。それはちょっと違うなっていう。もっと「オルタナティブ」でありたいという思い上がりがあって(笑)。

TaiTan 本当にそこですよね。ポリコレ的なものに対するアンチのスタンスでそういう発言をした時っていうのは、基本的にコレクトネスに対してのリアクションでしかないから。なんていうか、その磁場から逃れられないというか。

ザ・サードプレイスみたいに、オルタナティブな、アクションとしての悪口的なものの面白さを楽しみたいって感覚がすごいあるんですよね。


自分で書いておいてなんだが、「俺は会社で空気は読みません」ってすごく胡散臭くてイヤだ。伝統を打破しまっせ! みたいな、ファーストペンギン感を醸してしまっている。そういった革命家系の人たちとは一緒にして欲しくない。

会社の古い体質に異議を申し立てるような"空気の読めなさ"って、結局「ビジネスで成功したい」という価値観の中でのゲームチェンジでしかないので、"磁場から逃れられない"。僕はただ早く帰りたいだけなのだ。ビジネスなんか1秒もしたくないのだ。誰とも対立しない、オルタナティブなグレ方をしたい。


1月15日

風俗に行く人の意味が分からない。この歳になると男性陣が割とナチュラルに風俗に行った話をしてくるが、何一つ共感できていない。

そもそも「風俗」というネーミングからしてヤバい。「風俗」って本来は「文化」とかそういう意味の言葉ではないのか。何であんな特殊な営みがカルチャーを代表しているのだ。「性風俗」が「風俗」と呼ばれてしまうのなら、「パパ活」もいつか「活動」に改名するはずだ。「マッチングアプリ」も「アプリ」になるのではないか。名詞がポルノに乗っ取られていく。とにかく、風俗がそこまで人口に膾炙できた理由が分からない。

性的なビジネス全般に言えることだが、みんな人見知りしないのだろうか。単純に初対面の人と話すのは緊張するし、疲れるだろう。しかし、多くの日本人は、知らない人と、コミュニケーションの極北であるエッチをすることに、あろうことか、金銭を払っているのである。人見知りしないのか?

風俗まで行かなくてもマッチングアプリや相席屋だってずっと流行ってるし、なんか、みんな全然人見知りしなくてエラいな〜とよく思う。「出会い厨乙w」とか嘲笑ってた根暗たちはどこに行ったのだろう。僕はまだそこなのですが。風俗通いなんか褒められた行為じゃないだろうけど、その精神性には見習うべきところがあるかもしれない。


1月16日

何かを発信している人ってみんな要するに自作自演なので、どこか滑稽なところがあると思う。

Twitterでは嘘松ばっかりバカにされるけど、別に本当松のみなさんも、「この出来事をツイートしてやろう」と企んだ瞬間やウケるように文章を整えたりしていた時間はあるだろう。そのチマチマした時間はだいぶ卑しく、かつ普遍的だ。承認欲求モンスターみたいな人たちは、卑しさが表に出すぎていることより、その卑しさがテンプレすぎる部分が愚かだと感じる。人と異なろうと努力して自己顕示してきたはずなのに、なぜ他人と同じ過ちを犯すのか。

そんな卑しさに囚われた登山家、栗城史多さんを描くノンフィクション『デス・ゾーン』がめちゃくちゃ面白かったです。佐村河内さんくらいスキャンダラスな方だったようですが、微妙に世代じゃなくて知らなかった。



栗城さんの主な活動は「日本人初となる世界七大陸最高峰の単独無酸素登頂」であり、結局このチャレンジの途中、エベレストで滑落死してしまう。

このプロフィールを見た瞬間僕は「いや"肩書き"すぎるやろ笑」と思った。なんというか、ただ「七大陸最高峰登頂」じゃダメなのだろうか。「単独」で「無酸素」という要素を掛け合わせ、無理くりオンリーワンを作り出そうとする努力が涙ぐましい。肩書きの錬金術師だ。しかもそれで「世界初」ではなく「日本初」なのか。涙ぐましい。

プロフィールからもお察しの通りで、栗城さんはあくまで登山を「自分が目立つ手段」と捉えており、山をナメまくった言動を繰り返していた。登山の様子を逐一生中継し、電波優先でルートを選ぶ。登山家界隈からは嫌われまくり、逆に「挑戦してればなんでもOK」なビジネス自己啓発界隈にどハマりしていく。


栗城さんは山に登る自分の姿を、自ら撮影していた。 山頂まで映した広いフレームの中に、リュックを背負った栗城さんの後ろ姿が入ってくる。ほどよきところで立ち止まった彼は、引き返してカメラと三脚を回収する。 クレバス(氷河の割れ目)に架かったハシゴを渡るときは、カメラをダウンの中に包み込んでレンズを下に向けている。ハシゴの下は深さ数十メートルの雪の谷。そこに「怖ええ!」と叫ぶ栗城さんの声が被さっていく。

—『デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場 (集英社学芸単行本)』河野啓著
https://a.co/clioire


上記のようなエピソードが、冷静なようで見下しが抑えきれていない筆致でたくさん描かれている。「自分が登山するカット」をわざわざ撮るなんて滑稽さも、「迷惑な場所で自撮りしてるインスタグラマー」みたいに典型的なものだろう。

ただ栗城さんがすごいのは、どこにでもある卑しさをとんでもないスケールまで肥大させたことだった。普通の人が承認欲求だけで行ける場所なんてせいぜいチームラボくらいなのに、この人は南極やヒマラヤにまで行っちゃうのである。

彼を暴走させた周りの環境もすごい。何かに挑戦してるという理由だけで栗城さんを安易にコンテンツ化した人々、そして一瞬チヤホヤだけしてすぐ切り捨てた人々、そんな中でも「批判を気にせず夢を追え!」と持て囃した人々……。見事なまでに全員薄っぺらい。あらゆる人間の愚かさが元気玉みたいに集まって、恐怖の山登りモンスターを作りあげたのだなあと思う。



あとこういう、自分の全てを記録したがる人を見ると、逆に「何にも記録はしてないけど実はすごいことしてた」って人もいるんじゃないかと思う。たとえばエベレストに世界初登頂したのはエドモンド・ヒラリー/テンジン・ノルゲイという人らしい。でも、それより前に散歩がてら登頂して、写真も撮らず帰った人とかいたんじゃないだろうか。オリンピックの陸上金メダリストも「テレビに出られる人の中で世界一足が速い人」なだけだ。取材NGだけど金メダリストより足が速い人っているんじゃないか。


1月21日

僕の家の近所には大規模なスーパー銭湯があり、露天風呂までついている。

夜その露天風呂に入っていると、急に小雨が降り出してきた。急いで室内に戻ろうとしたのだが、このとき僕は「全裸のまま外で雨に打たれる」という人生初の体験をした。

実際やらなくても想像つくかもしれませんが、全裸で雨に打たれると、自分が世界からカタヌキされている感覚になる。自分の輪郭をポツポツ穿たれて、いつか周りから切り取られてしまうのではないかと思う。

「自分がカタ抜かれてしまうかもれしない」という不安に襲われることってあまりないので、しばし雨に打たれたまま立ち尽くしてみた。

徐々に雨足が強くなり、ただプール前の冷たいシャワーを浴びているだけみたいな感覚になって、非現実間はなくなってしまった。

帰ってからしっかり風邪をひいたので、全裸で雨に打たれることはおすすめしません。










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