2023年11月16日〜11月26日


11月16日


やけに鮮明に覚えている小学生の頃の記憶がある。

友達の家に4人で集まることになったのだが、そのうちの1人がドンジャラを持ってきた。彼以外全員ドンジャラのルールを知らなかったが、あんなでかい箱をわざわざ持ってきたガッツに負け、みんなでルールを覚えてプレイすることにかった。

ゲームを始めると、ドンジャラを持ってきたヤツが徐々に不利な状況に陥りだした。

いや、言い出しっぺが1番弱いんかい、と周囲は笑い始めた。すると、彼は突然「は? 死ねマジで」などと怒り出し、勝負がつく前に帰ってしまった。ドンジャラ師としてのプライドが傷つけられたのかもしれない。

それを見ていた家主の親が登場し、残った3人で引き止めに行き、謝罪し、後の遊びが盛り上がるわけないことくらい子供にもわかり、そのまま解散した。

当時の自分は、内心「このままボロ負けしたら絶対ウケたのにもったいないな」と思った。どんなに不利な手札だろうが、ゲームを途中で投げ出すのが1番ダサくないか? 最後まで本気で遊んでれば、負けたって笑いになったんじゃないか? どう転んだってプラスになるのに、わざわざそれを避けにいくようなプライドなんか捨てれば良くないか?

あれから10年以上経ちますが、まだ同じような自問自答をしています。


11月17日

映画を◯本を見ることとか漫画を◯冊読むことを目標にしてる人を見ると、アレルギー反応のように「いやコンテンツはそういう"量"じゃないからッ」と思ってしまう。でも最近はそれも別にいい気がしてきた。

もう自分はジャンル問わず面白いものなら何でも見たいのだが、これはつまらない人生を面白いもので希釈したいからである。別に教養とか広い視野を身につけたいといったブルジョワな欲求ではない。ハッキリ言って社会や人生のことが全然好きじゃないので、何とかそれを飲み込めるように好きなものに触れ続けたいのである。魚の臭みを取るために料理酒に漬けておくのと同じだ。

なら、その料理酒の目安量を決めておくのは悪いことではないだろう。映画を100本見るとか漫画を100巻読んだのなら、その時間は少なくとも苦しくて意味のない労働をしてるよりマシだ。この時間まで何かやりたくもない作業に侵食されたら精神を病むかもしれない。どんなに忙しくても、この領域だけは守り抜くという目的で、コンテンツの摂取量を目標にするのはむしろ健康的な気がする。

まあ、理解はできても憧れないものってたくさんあるので、私はしませんが……。


11月23日

お笑い賞レースの時期は「〇〇がイチウケらしい」とか「最大瞬間風速は〇〇」といった、とんでもなくウケた組のレポが上がってくることが多い。

まあ賞レースだから別にいいのだが、これらはあまりに人間を駒と捉えすぎた表現なので好きではない。しかし、たまにかなりグッとくる表現に出会えることもある。

去年のM-1のときに真空ジェシカのラジオに投稿された「ママタルトがウケすぎて虹がかかった」は本当にすごい。1年前のラジオなのにブックマークしているくらい衝撃だった。

劇場で大きな笑いを生んだ状況って「会場が揺れた」とか「爆発」とか表現されるけど、これはただ治安を悪くしただけの誇張というか、「飯テロ」とかと同じ低俗さを感じる。どうせ誇張するなら虹をかけるべきだろう。飯テロなら「美味しそうすぎてスマホを食べた」とか……。

また、もう一つ例に上がっていた「ミルクボーイがウケすぎてNGKが役割を終えた」はもっとすごい。別にお笑いでなくても応用できるからである。「全米が泣きすぎて映画館が役割を終えた」でもいいし「俺らが遊びすぎてスポッチャが役割を終えた」でもいい。何かを誇張して褒めるのって、誇張している自分の自己顕示欲まで露呈するので難しい。ただ、逆に言えば、センスのある誇張に成功すれば褒めた人も褒められた人もみんな幸せになるのだろう。


ウケといえば(ウケといえば?)今日生まれて初めて生大喜利会に参加してきました。

ラジオにメールを送ったり社会人お笑いをやってたりするので知り合いに大喜利プレーヤーがやたらいるのですが、今まで生大喜利は手が出せませんでした。色んなラジオに投稿する中で「大喜利っぽいコーナーほど苦手」という自負があったし、ましてや生大喜利って空気を読む力みたいなのが求められそうでそんなの1番ないだろと思っていたからです。

でも、いざ行ったら知ってる方ばかりで、誰が何言ってもウケるアットホームさがあったので何とかなりました。あと、「お題がすでに面白い」っていうのがデカかったです。実際あったのが「うんちを使ったマジック、どんなの?」というお題。正直ちゃんとお題に沿って答えれば何でも面白くなりますよね。大喜利バリアフリーだと思いました。「靴下にんじんが、うんちピーチになっている!」という回答で死ぬほど笑いました。


11月24日

声を大にして言えることではないが、結婚という目的を達成するための段階として「相手の両親に挨拶」がある意味が全くわからない。

自分が誰かと結婚する行為に、なんで親が介在してくるのだろう。とっくにオムツも外れて1人で金が稼げる状態になったのだから、自分の人生に親が登場する必要性なんかないはずだ。なんの意味があって結婚のタイミングで再登場しているのか。伏線回収ヘタ?

で、相手の実家に行って「娘さんをください」って何なんだ。おそらくこのセリフをちゃんと言う人ってそんないない気がするし、オッスオラ悟空的な、イメージだけのセリフではあろう。しかしその「親に娘をもらいにいく」というスタンス自体わからない。親って、もう結婚できる年齢になった娘をまだ自分の所有物だと思ってるのか……? 自分は男なのでここには隔たりがあるのかもしれないが、僕は自分を僕としか思わず誰かの所有物と捉えたことがない。

で、相手の親のスタンスとしてもまあ、「結局は娘の人生なので好きにしなさい」だろう。「娘さんをください!」「娘の人生だから好きにしてくれ!」。でしょうね。何このアホみたいな会話。わざわざ家まで上がった意味あった? ということである。結婚の挨拶ってもうさすがに形骸化しすぎている。コントの題材に使いやすいから生き残ってるだけとしか思えない。


11月25日

ひとり暮らしあるあるで「チキンラーメンを鍋から直食いする」とか「寿司パックのフタを醤油入れにする」みたいなのをよく聞く。僕はこのライフハックに自力で辿り着けなかったので、初めて聞いたときはひどく感銘を受けた。

しかしこれを聞いてから、外食時に「そもそも"器に盛り付ける"必要性ってなんだ?」と思うことが増えてきた。食器に対してゲシュタルト崩壊してしまう感覚だ。

フライパンなどの調理器具から器に移し替えることのメリットは、料理を人数分に分けられることだろう。味噌汁とかをみんなで鍋からすくって分け合うより、お椀に分け入れることで平等に分配できるし衛生的だ。

では餃子など個体の料理はどうか。わざわざ皿に盛り付けて分ける必要あるだろうか。つまり、フライパンを持って食卓まで行き、トランプみたいに机の上にポイポイ配ったって、分配の目的は達成できるのではないか。もちろん机は汚れるが、皿だって汚れるだろう。食後に食器を洗うように、食後に机を拭いたら解決できるはずだ。

要は、餃子は"皿と同じくらい衛生的な場所"ならどこに盛りつけてもいいのである。綺麗なんだったら床でもいい。地面に落ちた餃子を食うのはさすがに気が引けるが、ちゃんと考えたら何も忌避すべきポイントはないはずだ。デザートは床暖房でチョコレートフォンデュでも作ればいい。

まあ、理解はできても憧れないものってたくさんあるので、私はしませんが……。


11月26日


新卒時代に読んだけど内容に1ミリも納得できず投げ出した『怒らないこと』を再読した。なんか偉いお坊さんが書いたアンガーマネジメントの本である。


アンガーマネジメントといっても「6秒怒りを我慢してください」みたいな小手先のテクは一切なく、「怒っても自分が損するだけなのに、わざわざ怒ってる人は動物以下のバカです」みたいなことを延々理詰めしてくる。僕みたいな、明確なメリットを提示されないと何もやる気が起きない人間にはおすすめだと思います。

これを初めて読んだときは、毎日見るもの全てに腹を立ててヒステリー状態で働いていたので何も入ってこなかった。今は割とちゃんと怒るべきものにだけ怒って働いてるので言いたいことはわかった。あと新しく買った「怒らないこと2」でかなり論理が補強されてたのもある。何なら、自分が3年近い社会人生活で勝手に身につけた思考法とリンクする部分が多いとすら思った。

特に共感を感じた、どこかの国の国王と釈迦の問答がある。めちゃくちゃはしょると、「東西南北の火山が同時に爆発して、自分のところに一気に火砕流が流れ込んできて、完全に詰んでる状況になったらどうしますか」という問いだ。国王が出した答えは、「逃げようもないなら、ただ正しく生きるしかないですね」というものである。

この「東西南北からの火砕流」は、仏教でいう「生老病死」という4つの苦しみを表している。生きることも老いることも病むことも死ぬことも全部苦しいけど、絶対に逃げられない。なのに「若くいたい!」とか「死にたくない!」とか「楽したい!」とか欲を張るから、それが達成されないとき怒るのである。逃げられないって言ってるじゃん。何期待してるの? いいから今笑えという主張だ。

このエピソードで真っ先に連想したのが自分の地震恐怖症だった。


まあ、仏教は「全部諦めて寝てください」とは言っておらず「清く正しく生きてください」という結論なので僕の方がヘタレだとは思う。しかし、苦しいものをハナから相手にしない姿勢は近いものを感じる。

警報音とか地震などのハプニングに怯える不安定さは「怒り」に近いが、もうそれはあるやつとして、ラブリーに生きた方がいいのである。そして、生き方はいくらでも選べるのに、わざわざ「怒る人」になりにいくことはない。人生は人生賭けて戦うような相手ではないのかもしれない。


「怒り」は「負けた」と同じことです。負けると悔しいし、悲しいし、楽しくはないでしょう? つまり、不幸を味わっているのです。そして不幸を味わうとは、自分の人生に負けたということでもあるのです。

『怒らないこと(だいわ文庫)』p181
アルボムッレ・スマナサーラ猪












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