【日記#20240120】境界線

ケーキをたらふく食べるだとか、一日中ゲームをするだとか、夜更かしするだとか。幼い頃抱いた夢は、大人になって顧みると実にちっぽけで、明日にでも叶えられそうなものばかりだ。私は幼い頃、晴れと雨の境界線に行くことを夢見ていた。左カラッカラの右ビッチョビチョなボーイになりたかった。

年を経てこの頃、晴れた東京で新幹線に乗り、大阪に降り立つと雨だった、といったケースは幾らでもある。これは勿論、晴れと雨の境界線を通過したことになる訳だが、お日様サンサンと雨ザーザーの境界なんてものは存在しなかった。天候の境界はグラデーションである。たとえ東京の天気予報が晴れで千葉の天気予報が雨だとしても、江戸川を越えた瞬間に雨が降り始めるわけではない。

街の境界もまたグラデーションである。先日我々一向は下北沢から吉祥寺へと向かう大散歩を完遂した。下北沢と吉祥寺の間は井の頭通りという大通りが繋いでいる。これを下北沢から北東の方角へ3時間弱歩けば吉祥寺に辿り着く。(再現性のために正確に記しておこう。下北沢駅から鎌倉通りを10分程度北に向かって歩くと井の頭通りと交差する。井の頭通りを東北東の方角に3時間弱歩けば吉祥寺駅に辿り着く。)

下北沢を背に井の頭通りを歩き始めると、暫くの間はロードサイド店舗と住宅の並ぶ画一的な街並みが続く。特に多く目につくのは自動車ディーラー。我々一行は井の頭通りには思いつく限り全ての自動車メーカーの店舗があるということを発見した。数多の自動車ディーラーによって切り取られた通景の先には、赤や青、稀に黄色の点が幾つも輝くのみで趣が無い。赤や青、稀に黄色の点を目掛けて延々と歩き続けると、いつしか個性豊かな吉祥寺の街並みへと漸次的に移り変わる。我々が体験する街並みに境界線は無く、グラデーションで変化するのだ。

吉祥寺らしい街並みがポツポツと現れ始めると、右手に『エルマーのぼうけん』のボリスが待ち構える書店が見えてくる。私はその書店で別役実の『マッチ売りの少女/象』を買った。別役実は『東京放浪記』の中で、吉祥寺を始めとする中央線沿いの街並みを、「学生と文化人の街」と形容した。別役実の本を買い、書店を出たところで、この「学生と文化人の街」という言葉を思い出した。井の頭通り沿いの散歩は、「学生と文化人の街」らしさの淡から濃へのグラデーションを体験する散歩だった。

そうは言っても、街には住所という境界線が存在する。市と市の境は市境、県と県の境は県境、国と国の境は国境といった具合に。しかし、住所などという法整備上の境界線は全く当てにならないのだ。住所は行政に関わるときだけ思い出せば良いものであって、我々の街並みの体験は法律が何と言おうがグラデーションなのだ。神奈川県から東京都へ県境を跨ぐとき、横浜町田の奇を衒ったようなラブホテル群を眺めながら進んでいくと、いつの間にか東京都にいる。いくら法律が、それに加えて多摩川という地理が、神奈川県と東京都を分断しようと我々の体験は分断されない。

そうこうして日記をつらつらと書いているうちに、いつの間にか日付が変わっていた。そろそろ明日の準備をしなければならない。この「明日」という言葉は、いつからいつまでの時間を指すのだろうか。「明日」は、時間の境界がグラデーションであることを示唆している。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?