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他人に遠慮して生きるのはやめよう、そう思ったとき

今でもハッキリ覚えている。
小学校の文集。

私は小学校時代、そこそこいじめられっこだった。
勉強もできない。運動もビリ。
なのに気性は荒く、乱暴…なのに非力。

めちゃくちゃなキャラクター…

で、まぁ、いじめられていた。


その文集には、自分の似顔絵を描くことになっていた。

私の唯一の取り柄、武器は、絵を描くことで、クラスの女子から、その絵を頼まれた。10人くらい頼まれたと思う。

それぞれに趣向を凝らし、かわいく描いた(つもり)だ。


で、文集には、似顔絵以外に色々書く欄があるのだけれど、それが見えてしまった。


なまえ
誕生日
血液型
ペット
好きな科目
苦手な科目
この一年で頑張ったこと…
などなど。

その中に、自分の長所という欄があって、

そこに、

堂々と

「やさしい」

と書いてあった。

気づいて、サッと他の全員のもチェックしてみた。

全員、10人残らず、

やさしい

長所   やさしい



は?

時間が止まった。

スタープラチナか?


私はその全員にいじめられた覚えがある。


やさしいって、お前らが???


それからの人生何度も何度も、返す返す、その出来事を思い出している。


そして、出た結論。

私は、それまで人間に期待していた。
この世には、どこかに、非の打ちどころのない立派な人がいて、素敵な人がいて、その人に出会ったとき、自分も、それなりに恥ずかしくないようにしようと思っていた。

その完璧な人の基準から比べて、頭がいい悪い、運動神経が良い悪い、人格が良い悪い…という、「絶対基準」で人を判断しているようなところがあった。


でも、それは、間違っていた。

この世にいる人は、すべて優しく、すべて優秀なのだ。
そして、みな、善人で、立派で、尊い。

そして同時に、全員どうしようもなく、愚かなクズ。
悪人で、恥しかなく、無価値。


「絶対基準」というものが、存在しない、としたら、
そういうことになる。


それから、時間はかかったけど、きっぱり

「他人に期待する」ことを止めた。


人間に絶対基準を持っていると、
人と人を比較するし、自分と人を比較する。

そして、優れている、劣っている
恥をかくかもしれない
怖い

と、委縮する。

「いつか出会うであろう、立派な人に恥ずかしくない人間になりたい」と

成長意欲も確かに持っていたけれど、

むしろ、自分の行動力や、行動の幅を狭め、

人を見る目も、すごく狭量で、

決めつけが多かった。


常識というものから少しでも、はみ出ていたら、恥だ、みっともない、

失敗したら、やっぱり恥だ、みっともない。


こんなブレーキを踏みながら、アクセル全開で生きられるはずがない。

というわけで、立派な人間が頭にあるうちは、冒険も挑戦もない人生を生きてしまっていた。


絶対基準を捨てた時、

他人に期待しなくて良くなった。

いつか、どこかで出会うであろう、素晴らしい人などいない。


そう思うと、自分は、立派な人にならなくていいと思えるようになった。

それで成長したいと思わなくなったかというと、そんなこともなく、

「自分は自分として、自分のまま、有用な人間になろう」


人の役に立とう、という気持ちが、強くなった。


ただし、それは、「自分のまま」で、違う人間(立派な人間)になってまで、人の役に立つ必要はない。


立派な人間は、他人の期待を背負い、他人にとって都合のいい、
ただそれだけの存在であった。


そんな人間を求めなくなったので、他人のこともあるがまま。

この人にはこういう欠点があるし、これまでこういう経緯があって、大嫌いだが、こういうところは役に立つ・・・と、人との付き合いも割り切ったものになっていった。


思えば、彼女らは、わたしより先に、その境地にたどりついていた。

私のことは嫌いだったはずだが、絵がうまいという点では役に立つと考えて、使おうとしたのだから。

まったく、敵わないね。






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