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vol.4 組織に根付き育てるブランドをつくる【山形緞通】

経営者とブランディングデザイナー西澤明洋が対談し、ブランドの成長ストーリーを振り返りお届けするシリーズ「BRAND STORY」。


執筆・編集 加藤孝司
撮影 トヤマタクロウ

1935年創業のオリエンタルカーペット株式会社は山形県山辺町にある。この地域の再生・振興と農村出身の女性たちの雇用創出を目的に、中国から7人の職人を招き技術指導を受けて80年あまり。美しい山並みを遠くにのぞむ自然豊かな場所にある創業当時の面影が残る工場では今も当時と変わらず山形の女性たちが卓越した技で緞通の製作に勤しんでいる。中国の技術と日本の美意識を織り交ぜて織られる上質な緞通は、東京の歌舞伎座、新国立劇場、ホテルオークラ、帝国ホテル、アメリカ合衆国大使館、東京証券取引所、京都迎賓館など、誰もが知る著名な施設に採用されている。その製品は世界で唯一無二ともいえる丁寧なものづくりの技術とともに、注目されている。その技はどのように受け継がれ、その可能性をブランディングデザインによってどう切り開いていったのか?
ブランディングに至る背景を中心に話を聞いた。

伝統的ものづくりからの飛躍を目指して

ーーまずはお二人の出会いから教えてください。

渡辺:知り合いのコンサルの方に紹介していただいたのが最初でしたね。

西澤:そうでした(笑)。それで最初に事務所に来ていただいたのがいつだったかなあと思って先日調べてみました。そうしたら2012年の9月でした。だいぶ経ちましたね。

渡辺:東日本大震災の翌年でした。会社としては、このままでは先がない、なんとかしなければいけないという時期で、東京で展示会に出展しはじめた頃でした。今もそうなのですが、弊社は建設(建築に絨毯を納めるBtoB事業)で伸びてきた会社です。私がこの会社に入ったのは平成3年で、弊社としては2代目3代目という時代で、従業員が100名強、売上が約15億、東京と大阪にも営業所があり年間20億の売上を目指していました。それで4代目の時代にバブルがはじけて、リーマンショックがありました。

西澤:そうだったんですね。

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渡辺:はい。オリエンタルカーペットという会社は業歴が長いのですが、数年に一度大きな規模のプロジェクトがやってきます。経営的には赤字が2年続いて3年目が黒字、そしてまた赤字が続いて黒字という感じで会社が回っていました。それがリーマンショックもあり世の中の景気が悪くなって以降は、それまで3年に一度黒字だったものが、4年に一度、5年に一度になり、大型プロジェクトがだんだんとなくなってきて、蓄えを取り崩さざるをえなくなってきました。これはブランディングの一番大きな部分に関わってくるのですが、それまでは、いいものをつくっていれば売れるという考えでやってきましたが、実際はいいものをつくっているだけでは売れない時代になってきて、リストラをしたり嵐のような時代もありました。それで一人一人の職人さんを織りだけでなく手刺しもできるように育てていきながら、職人の数を半分まで減らしてというタイミングで叔父から社長職をバトンタッチしました。

西澤:それが何年ですか?

渡辺:西澤さんにお会いする5〜6年前ですから、13年ほど前になります。金融機関と相談しながらコンサルを入れたり、いろんなことをやりながらスタートしたのですが、不景気で、しかもものが売れないという世の中の流れもあり、負の連鎖をどうしても断ち切ることができませんでした。建設の仕事でも、オリエンタルカーペットさんはいいものをつくっているのはわかるんだけど予算がどうも、という感じで立ち消えていく話が続きました。当時は従業員は40人を切るような規模でやっていました。そんな会社状況の中で、さらに追い打ちをかけるようにあの震災が起こりました。

西澤:大変な時期でしたね。

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オリエンタルカーペット代表取締役社長 渡辺博明氏
青山学院大学卒業後、山形テレビ入社。1991年オリエンタルカーペット入社。企画部長、総務部長、常務取締役を経て、2000年に専務取締役就任。2006年に代表取締役社長に就任(5代目)。オリエンタルカーペットは、2006年に経済産業省「明日の日本を支える元気なモノ作り中小企業300社」受賞、2009年に経済産業省「第3回ものづくり日本大賞・経済産業大臣賞」受賞。2018年に経済産業省「地域未来牽引企業」に選定。

渡辺:はい。それで西澤さんとの出会いがあり、新たに「山形緞通」というBtoCのブランドを立ち上げ、ここでは利益率を変えるということもきちんと考え、会社の経営の部分でも負の連鎖を直しながら、これまで7年間やってきました。現在工場には62名の職人さんに働いてもらっていますが、規模的にはこれを100人にしようとは思っていません。そうではなく、50人でも60人でも、一人一人の職人がつくるものの付加価値をどう上げるかということに向き合っていかないと、私どものようなものづくりは成り立たないと思っているんです。これまでのような「伝統的、工芸的なものづくり」から変わらなければ、今の私たちはありませんでした。それとブランディングをやっていなければ今の私たちの会社があったかどうか。

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執筆・編集

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Photo:Takuroh Toyama

加藤孝司  Takashi Kato

デザインジャーナリスト/ フォトグラファー

1965年東京生まれ。デザイン、ライフスタイル、アートなどを横断的に探求、執筆。2005年よりはじめたweblog『FORM_story of design』では、デザイン、建築、映画や哲学など、独自の視点から幅広く論考。休日は愛猫ジャスパー(ブリティッシュショートヘアの男の子)とともにすごすことを楽しみにしている。http://form-design.jugem.jp

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トヤマタクロウ

1988年生まれ。写真集や個展での作品発表を中心に、クライアントワークにおいても幅広く活動。http://takurohtoyama.tumblr.com

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