格好悪い私のままで、自由になろう
昨日私は、自分を見ているかもと感じる目線は、自己の目線を内包したものだ…という記事を書いた。
自身の目線を内包することで、「私」という肉体の監獄に、精神を閉じ込めてしまうということ。
そんなのは窮屈で不自由だろうと、想像せずとも皆さん一様に口を揃えるかもしれない。
ではそうでなくするために…
他人に見られているという意識をなくせば良いのか?
他人がどう思おうと気にしないでいれば良いのか?
…恐らく、意識してすぐその状態になるのは無理だと思う。
結局、今の社会もそういう視線を利用した環境やコンテンツが存在しているのは事実だし、私たちが小学生の頃からその意識が芽生えてしまうのも仕方のないことだ。
さらに言ってしまえば、私たち自身がそうやって人を見ているからとも言える。
私たちが道端で転んだ人を見て「あらら、痛そう」「うわ、恥ずかしいだろうなぁ」「不注意だろう」様々に思う人はいるだろうが、そう思ったことが全て自分に返ってきている。
自分が同じ状況下に陥った時、自分の目線を他者のものとして扱うから、同じように思われていると感じるのだ。
(そう思うと、ちょっぴり周りに優しくなれる)
少し話を戻そう。
では自分が自己の視線を内包し、窮屈な思いをしなくて良いために。
私のひとつの解は、それぞれの事柄のどこかに、「そんな私が好きだから(なぁ)」を付けることだ。
例えば…
道すがら、身も知らぬ人に可愛いと思われたいと思っている。誰も見てやしないのに…でもそんな私が好きだからなぁ。
休日、スーパーに行くためだけに眉毛を描いている。でもその私の方が好きだからなぁ。ならば仕方ない。
そんな私が好きなら、見目を気にして化粧をしようが、店でスマートに振る舞おうが、全てが「自分のため」になる。
恋人に自分の変化を気づいてもらえなかったとしても、「そう在る自分が可愛いから行動した」ことになるので、怒りが湧いたりしない(気づいてもらえたらそりゃ嬉しいけれど)。
人目を気にしようがそんなことは当たり前だし良くて、その自分に許可を出せることがとても自由になることだと最近は思っている。
行動の基準を、私を好きでいられるかどうかにおくことも大切だと感じるが、ぜひちょっとしょうもない私のことも、好きでいられないか聞いてみてほしい。
他人が自分をどう思うか推量れないのだから、私が私のことをどう思うかも自由なのだ。
かくいう私もつい1年前までは自分の身体が、思考が、見え方が気になって仕方なく、最早嫌いだったが。
かけがえのない自分のことだから、一緒に一歩好きになる勇気を持ってみてほしい…など、よく言えるようになったものだ。私がこんななので、皆さんもきっと大丈夫です。
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