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【前編】「しがらみ」メンバー対談|矢崎×中村×山本(敦)×山本(麻)×矢島

8Peaksのメンバーは、バックグラウンドや職業も多種多様。
なかには、家業や先代から続く生業があるメンバーも。自らの生き方と、家族の想いや「継ぐべきもの」との間でプレッシャーを感じながら、葛藤を乗り越えてきました。
そんな「使命」、はたまた「しがらみ」を持ちつつも、八ヶ岳エリアの活性化に日々尽力しているメンバーたちに、それぞれの想いを語ってもらいました。

<メンバー紹介>
矢崎 高広:株式会社8Peaks family 取締役・オーナー
中村 洋平:「合同会社ヤツガタケシゴトニン」代表
山本 敦史:「たてしな自由農園」常務取締役
山本 麻琴:太鼓打師、「御諏訪太鼓」伝承者
矢島 義拡:「白樺リゾート 池の平ホテル&リゾーツ」 代表取締役社長

新しいスタイルで、“人生の歴史に関わる”を実現したい

−今回は「しがらみ」を語る会ということで、改めてみなさんの自己紹介をお願いします。まずは矢崎さんからお願いします。

矢崎:これ、どういう感じでやろう?(笑) 矢崎です。よろしくお願いします。僕は長野県茅野市で生まれました。父が2人前(4期前まで *取材当時)の茅野市長をやっていたこともあってか、結構色々と行政のお仕事やお話をいただくことがあります。
もともとJC(青年会議所)をやっていて、その時にまちづくりの事業をやらせていただいて、そこから色々やっていくなかで、広域の観光組織のお仕事とか、茅野市のお仕事とかのお話をいただいて、今、 8Peaksのメンバーと一緒に広域観光事業をやらせてもらっています。
やっぱり父が父だったので、そういうプレッシャーもありながらやってきました。ただ、行政に行くつもりはなくて、父がやっていたのは民間と行政のパートナーシップで、民間色が少し強い行政とのパートナーシップでした。
今は行政色の強いパートナーシップになっている気がするので、時代的にももう少しパワーバランスをとって、税の平等性や公平性とかがあるとは思うんですけど、そういうのよりも、勝たないとみんな死んじゃうので、民間の経営感覚とか、利益利潤を求める、効率性の高い、そういうお仕事ができたらなぁと思ってやっています。
ですが、行政の方とお仕事すると色々、行政の方にはそれぞれのポジションがあるので難しいなと思いながら、民間側でうまく行政の方とパートナーシップを組んでやっていけたらいいなと思っています。

矢島:すごい、(矢崎)高広さんが型どおりにちゃんと自己紹介してる(笑)。

一同:初めて聞きました(笑)。

矢崎:取材ですから(笑)。

ー矢崎さんの居住歴はどんな感じですか?

矢崎:18歳まで茅野市に住んでいて、予備校で東京に出ました。それから、学生時代と新卒1年目まで東京にいました。2年目から群馬に異動して2年半過ごし、また本社に戻って東京に住んでいました。30歳で転職して、横浜に引っ越し、38歳で茅野市に帰ってきました。

ー茅野市に帰ってきたきっかけは何だったんですか?

矢崎:僕は田舎の長男で、家業があって、どうしようかな…というのがいちばんでしたね。

ー次は中村さんお願いします。

中村:元々は僕はエンジニアだったはずなんです(笑)。エンジニアを目指して、大学の後に専門学校に行きました。で、プログラマーになってプログラムのお仕事をしていたんですけど、都内で色々なお仕事をやる中で、ある程度お腹いっぱいになったので、故郷に帰りました。実家が原村のペンションだったので、観光のことでIT技術を使って何かできないかなと思って、帰ってきて色々やり始めたという感じです。
で、今は情報産業だけじゃなくて、結局のところリアルな宿をやっていたり、飲食店をやったり、野菜の収穫したり、なんでも屋みたいな感じです(笑)。

その理由が最近やっとわかって、1970年代に作られた原村のペンションビレッジは当時、村内でもっとも若い人たちが多い地区で、当然移住者だらけだったんですけど、今なんと村内で最も高齢化率が高いんです。ある意味いいところだから、たぶんお年を召しても居たいっていうのがあるんですけど、逆に言うと世代交代がまったくできずにそのまま進んでしまった地区で、僕はそういうところにいます。

僕が生まれたところは原村の「ペンション区」っていうペンションの行政区なんですけど、本当に皆さんおじいちゃん・おばあちゃんだらけなので、僕にすべての役職がまわってくる感じで、消防も、自治会も、観光連盟の副会長も、自然文化園の理事も、みたいな感じなんですよ。次は保健所への申請の取りまとめ役がまわってくるの(笑)。
最近は「出払い」っていわれている草刈りもドぎつくなっています。ゴミ捨て当番も「僕だけ回数多いのかな?」っていうくらい(笑)。今、日本で問題になっている高齢化っていうのが急速に進んだ例の一つだと思っていて、こういうのってどうしたらいいんだろうなと思いながら、「仕事したい!これやりたい!」みたいな若い人たちがどうしたら原村で商売してくれるかな、と日々考えていますね。

ー中村さんも、帰ってきたのは家業がきっかけですか?

中村:そうですね、でも僕が大学に入る頃くらいにはペンションってブームが去っていたし、スキー場ももうお客さんが減っていたので、家業は継がないって決めていました。ペンションっていうスタイルは僕にはできないな、と…。

ーでも、戻ってこようと思ったんですね。

中村:ペンションっていうスタイルは好きなんですよ。うちのペンションもそうなんですけど、40年間来てくれているお客さんっていうのがまだいらっしゃるんですよ。開業当時から毎年来てくれて、僕が生まれたときに18歳くらいのチャキチャキのお兄ちゃんだった人が、結婚して子どもが生まれて、もう定年退職なんですよ。
その人生の歴史の中で関われるような職業って、ペンションっていう形態じゃないと難しいと思うんですよね。お客さんからすると「帰る田舎」って感じで、ペンションは僕にはできないっていうだけでスタイル的にはすごく好きなので、あのスタイルは残しながら何かしたいなと思っています。

農家さんたちのために、自分が継ぐしかない

ー次は(山本)敦史さんお願いします。

敦史:僕は「たてしな自由農園」っていう農産物直営所を経営しています。僕の父が2000年に前の仕事を早期退職して個人事業で始めて、今は法人化してやっています。
そもそも僕は諏訪市の生まれで、小学校の時に茅野市に引っ越してそのままずっと住んでいて、大学進学時に外に出ました。

大学卒業当時は、地元にUターン就職しました。僕は理系の大学に行っていたので、製造業のエンジニアとして10年間働いていました。
就職してから2年目に父が勝手にたてしな自由農園を始めたんですけど、家族は何も知りませんでした。うちの家族は、まわりの人から「たてしな自由農園が開店するぞ」って教えてもらったような状態で。その時に父が「俺は勝手にやるから、お前らは勝手に生きろ」と言っていたので、そのままエンジニアとして10年間働いていたんですけど、道の駅とか農産物直売所ブームにうまく乗っかっちゃいまして、父がどんどん事業を拡大していって店がどんどん増えていくなかで、僕なりに後継者問題をすごく不安に感じました。
その時すでに農家さんを300人抱えていたので、自分たちが勝手に事業を辞めるっていうわけにいかない状態で、さらに父も年をとってきて、継続するにはどうしたらいいんだろうっていうことを自分の中で考えている中で、自分が継ぐしかないなって勝手に決めて、当時勤務していた会社に「会社を辞めたいんです」っていう話を勝手に取りつけてから、父に「たてしな自由農園に入社します」っていう話をして、2009年に転職しました。

そもそも小売業というか、お客さん相手に色々仕事するっていうことがあったので、「やってみよう」ということになったんですけど、いざやってみたら普通の小売業とは違って、仕入れて売るっていうだけではなくて、農家さんと色々コミュニケーションとりながらやっていかなきゃいけないとか、そういった醍醐味もありつつ、結構その農家さんもそれぞれ個人事業主みたいなことがある中で大変な部分もありながらも、なんとかやっています。

2009年からそうだったんですけど、やっぱり全国的に農家さんの減少や高齢化、農産物の価格高騰などの問題があります。それがここ5年位(※取材当時)顕著に進んでいて、このあたりは高原野菜の一大産地で、品質のいいものを作っているということで、地元のお客さんもそうだし、ここに来る方からの評判も、とてもいいんです。心を込めて作ったよい農産物をどう外に出すかと農家さんが悩まれることもある中で、たてしな自由農園が支えることができればいいなと思っています。

生まれながらに感じた「しがらみ」

ー次は(山本)麻琴さんお願いします。

麻琴:僕は生まれたところが「しがらみ」みたいなものです(笑)。しがらみこと御諏訪太鼓といえば…

一同:(笑)

麻琴:僕は御諏訪太鼓という和太鼓の家元に生まれたんですけど、御諏訪太鼓の家元っていうのは母方の家で、祖父は小口大八といいます。祖父の太鼓っていうのは、母のお腹の中にいる時からずっと聴いていましたし、生まれてからもずっと聴いていました。
物心がついた頃には御諏訪太鼓を演奏しているところを見ていて、僕は太鼓に合わせて踊っていたそうなんです。その姿を見て、父が「この子に今から太鼓をやらせよう」という風に決めたのが2歳半くらいだったということで、その頃から太鼓を始めました。
祖父はエネルギッシュで若々しい人だったので、よく周りから孫ではなく「息子?」って言われていました。祖父もそこを否定しないんですよ(笑)。

一同:(笑)

麻琴:そんな感じで、祖父と一緒に地域や日本国内の演奏の場へメンバーとして行かせてもらって、父も母も太鼓演奏をするという、一家で太鼓を打つという環境で育ちました。

御諏訪太鼓の家元である山本の祖父・小口大八から受け継いだ御諏訪太鼓

ー「家元」っていう意識は小さい頃からあったんですか?

麻琴:周りがそう言うので、「家元なんだ」という意識にならざるを得なかったですね。「継がなきゃいけないんだろうな」という意識を小さい時のほうが強くもっていたんですが、小学校も中・高学年くらいになってくると、すごく嫌になりはじめて…。「なんで僕は練習をしないといけないんだ?」っていう…。本番は好きだけど、それまでの練習が嫌だなっていう時代があって。
でも小学校の高学年、5年生のときにそれまで教えてもらうことができなかった『阿修羅』という曲を祖父から教わるということが始まって、それがすごくおもしろくて。それまで演ったことのない曲だし、憧れている人の打っている曲でかっこよかったので、やってみたいとは思っていたんです。
で、それまで週に1回くらいだった練習が、毎日毎日学校から帰ってきたら練習、という状態になって、それが中2くらいまで続きました。ところが、なかなか覚えられなくて。祖父は毎回太鼓が即興みたいな人で、同じようで同じじゃないようなことをする天才でした。特に『阿修羅』は即興の部分がすごくたくさん入っていて、毎日教わっているのに「全然わかんないな。」と思いながらとにかく何度も反復して1曲の流れとして打てるようになったのは3年ぐらい経ってからです。

その頃に父が1,500人くらい入るような大きな会場で演奏する機会を作ってくれて、中3の時だったかな?シンセサイザー奏者の喜多郎さんを、父が自身で企画した公演にゲストとして招いて、太鼓×シンセサイザーのコラボ共演で阿修羅を演奏させてもらったんですよ。

喜多郎と山本が共演した際の写真 ※1

そういう経験もしながら育ってきて、僕は幼稚園から高校までは岡谷だったんですけど、専門学校は東京の学校に行きました。親たちは音楽系の学校に進んでほしかったようなんですが、僕は全然興味がなくて、音楽はできる限りやりたくないって決めてました(笑)。

一同:(笑)

麻琴:できる限り音楽から離れたいと思って、僕はものを作ることが好きなので、彫金っていう、指輪とかネックレスとか、アクセサリーを作る専門学校で2年間学んで、その後は地元に戻ってきて、松本市で働きました。僕は人生として太鼓は続けるけど、本職としてというよりは仕事は別でもちたいと思っていた時期の真っただ中の頃ですね。
というのも、子どもの頃から太鼓の世界で育ててもらってきて、芸事の人たちって、平日も土日も、朝も夜もなく、みたいな働き方をするんですね。芸事だけじゃないかもしれないけど。例えば地域の会合や接待の場にも子どもの僕を連れていくし、夜10時や12時まで外に出ているというのは当たり前で、土日は演奏かチーム指導をしている、それが子供心に嫌で、残業なく定時上がりで土日は休みっていう家庭の友達がうらやましいなと思っていました。

・・・話は戻って、彫金師として働いて3年経った頃に父が病気になって東京の病院に入院することになり、医療費も必要だったし、僕はもう一度東京に出て、稼げれば何でもいいっていうような暮らしを21歳から始めて、朝から晩まで1日18~19時間働いて途中で倒れて入院したこともありました。そんな生活をしている中で、父は僕が26歳の時に亡くなりました。

父は闘病中も酸素チューブをつけて太鼓の指導に行ったりしていたんですけど、とにかく「太鼓を伝えていくこと・打つこと」を最期まで続けてた父で、そういう姿も見ていたので、亡くなった後に父からの“しがらみ”から解き放たれて好きなことをやっていいという状況になった時に「僕は何をするのかな?何ができるかな?」と立ち止まって考えてみました。2~3カ月考えてみて結論として辿り着いたのが、幼少の頃から太鼓を続けているけど、「太鼓で食っていくぞ」という思いで取り組んだことはなかったので、それに挑戦してみようという結局のところ堂々巡りのような答えでした。
1年間思いっきり太鼓のことだけを考えてみようということで、大人になってから改めて太鼓に向き合って、1年経って太鼓1本で生活できるようになれば最高だったんですけど、そうはならない現実がありましたが、自ら“やり続けたい”と心は定まっていましたね。そんな矢先に、今度は祖父の小口大八が交通事故で亡くなってしまったんです。祖父は御諏訪太鼓を復元してから60年あまり現役で伝承を続けてきて海外にもお弟子さんがいるような偉大なる存在だったので、まさか突然いなくなってしまうとは思ってもみませんでした。

亡くなる3ヶ月前には祖父を僕の自主公演に招いて出演してもらって、僕と母と祖父と3代で出演する公演企画の中で自分自身が表現したい太鼓を見てもらい、やっと演奏者として舞台上で語らうことが出来たのかなと思ったりもして、当時祖父は83歳だったんですが、まだまだ何年か一緒に舞台に立てるものだと思っていました。そう思っていたのに、3ヶ月後に急にいなくなってしまって…。
祖父のお通夜だけでも2,000人、葬儀は6,000人もの方が参列してくれるほどの規模でした。そうなると、「小口大八の後継ぎだ」という目線で皆が僕を見るんですけど、僕がすぐに何かできるわけではなく、僕が何かを運営していたわけでもなく…。「何ができるのかな?」というと、僕が教わってきたことを伝えるということになるのかなって。

太鼓と共に生きてきた41年間を、次の世代に繋ぎたい

麻琴:今、この地域で諏訪大社や歴史・文化を色々な場面で取り扱ってくれる方たちがいます。この8Peaks familyの皆さんもそうですし、池の平ホテルの従業員の方と地域住民への方への太鼓指導もそうです。その時に僕の持ってるものは太鼓と共に生きてきた41年間で、祖父や父から叩き込まれたものがあるので、それを僕が同世代や次世代に伝えて次に繋いでいきたいと強く思っています。

僕もまだまだ勉強しながら、どうしてそこに祖父や父が行き着いたのかな、ということを自分でしっかり発見しながら、今の時代に沿った形で今の時代を生きている人たちに伝えていくことができたらいいなと思っています。

矢島:白樺湖の住民と池の平ホテルの従業員に麻琴さんから太鼓を教えてもらっているんですけど、どうやってやるかっていう最初の座組の時に麻琴さんにうちに来てもらって夜も丑三つ時までこの話を聞かせていただいたんですよ。
(矢崎)高広さんも、中村さんも、敦史さんも麻琴さんも、それぞれの背負うものとかしがらみとかあって、それぞれ違うじゃないですか。それを改めてすごく感じたのと、すごくうれしいなと思ったのは、昔、麻琴さんのおじいさんの大八先生と僕の祖父に接点があって。うちの祖父は(池の平ホテルが)初めて海外に出店した時に大八先生にご相談して、御諏訪太鼓の指導を依頼したんですよね?

麻琴:オーストラリアのゴールドコーストで新展開するレストランということで、太鼓を通じて日本の文化を発信できるように、従業員さんにお教えしたんじゃないですかね。オープンした翌年にはオーストラリアのブリスベンで開催された「クインズランド・ジャパンフェスティバル'87」に小口大八率いる御諏訪太鼓が演奏に行っており、レストランに立ち寄ったという写真も残っています。

クインズランド・ジャパンフェスティバル'87に小口大八が出演した際、食事会を開いた「レストランさくら」での余興演奏の写真 ※2

矢島:たぶん、大八先生とうちの祖父が似ていて。ちょっと破天荒というか、戦争を経験して、世の中に中指立てて、みたいなスタンスを含めて。そこで相通じるものがあって、そういった太鼓指導をしていただいて、螺旋巡ってまた僕らの世代で話ができるのは輪廻だなって思ったんですよね。
僕の自己紹介、以上でよろしいですか?(笑)

一同:(笑)

ー対談は後編に続きます。


※1、2:御諏訪太鼓より提供

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