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一年

僕の人生にとてつもなく大きな影響を与えた、めちゃくちゃ大好きな人が、一年前の今日、死んだ。

一年も経てば、人の死というものも乗り越えられるだろうと思っていたんだけど、やっぱりこの世界のどこかをフラフラしているんじゃないかな~という妄想が日々強まっていっている。

そりゃ傍から見たら、完全に逃避なんだろうけど。
逃避だろうと、どっぷりと暗く落ち込んでいた心は、日々上昇と下降を繰り返しながらも、だんだん上向きになってきている。ような気がする。

壁を越えるのではなく、迂回する。
ハードルは飛び越えず、くぐらず、棄権する。
そういう生き方をしてきた。そんな自分にできる死の乗り越え方はこれしかなかったと思う。
もうちょっと他になかったんかい。相変わらず生き方がへっぽこだ。

人が死んでも、遺された人たちはそれぞれの生活が続いていく。
悲しかろうと絶望しようと、入れたいものを口に入れて、胃に押し込んでウンコにして、肛門から出して、横になって寝る。その繰り返し。
そのために金を稼ぐ。シンプルだ。
シンプルなのになかなか難しくて、だけど皆がやらなくてはいけない。
ということはこの繰り返しこそが生きるということなんじゃなかろうか。
まあ、他のこともするけど。たまにお尻を出したりタマキンを伸ばしたり。あとエロビデオと酒とタバコ。これよ。

気持ちがどん底にあった時、誰かが頭の中で考えて紡いだ言葉や、むき出しの気持ち(というテイ)の言葉を、見ても仕方ないと思った。
あの人の言葉以外を聞きたくない知りたくないという気持ちもあったのだろう。そういう言葉を見るたびに、怒りと悲しみと諦めがないまぜになったような感情が、自分の血に溶け込んで身体中をぐるぐると循環して、そのまま世界が真っ暗になって、横になったまま死ぬこともできずに動けなくなる気がして、ひたすら生活をすることに集中しようと思った。
人一人いなくなるだけでそんなになるかと思うけど、なったものはなった。

ひたすら生活をするということにおいて、世の中の様子がうまいことおあつらえ向きな感じになったのはラッキーだったと思う。
そんな世の中で安定した暮らしができる環境にいたこともラッキーだった。I'm ラッキーボーイ。ラッキーラッキー。
そんな世の中で生活を守ったり、やりたいことをやったりするために足掻いてきた人たちには悪いけど。

自分のために自分の世話をして自分の心臓が刻むビートに合わせたペースで生きる暮らしというのは心地がよかった。世の中や他人のことで怒ったり悲しんだりしなくていい。

そんな暮らしを心がけていたので、LINEやTwitter、SNSの通知をほとんど全部切っていた。僕に連絡を取ろうとしてくれた人たちには申し訳なく思う。たまに恐る恐る覗いて見てみてはいたんだけど、なんかめちゃくちゃ溜まってしまっていたので「うわっ」と思って閉じていた。
冒頭でも書いたけど、目の前の高い壁から全力で逃げてしまう。夏休みの宿題は8月31日に「うわっ」と思って9月15日頃から提出し始めるタイプ。終わってる。
ただ、そういう生活って、めちゃくちゃ楽なんだよな。楽なんだよ~~~。
まあ、さすがに反省してるので通知はオンにするけど、反応は悪いと思います。ご縁がある人なら、どこかでばったり会えるでしょう。

目の前のどでかい壁から逃げて、逃げて逃げて逃げて逃げて、逃げ続けていると、だんだん壁の全景と、自分がするべきことが見えてくる。
「あ、別にこの壁って通らなくていい壁じゃん」とか。
「これはどう足掻いても通るしかない壁だから、削岩機を買ってこよう」とか。
「なんか越えなきゃいけない壁っぽいけど、いったんここに座って休んじゃお」とか。
「めんどくせー!ダイナマイト持ってこい!人間爆弾じゃい!」とか。

いきなり目の前に降ってきた「自分の中の神様を喪った」というバカでかい壁は、輪郭が見えるようになるまで長いことかかった。
逃げるために身軽になって、それでもまだまだ逃げ続けて、ようやく。

それで思ったのは、とっても高くて立派な壁なので、記念碑くらいにはなるんじゃないかな。ということ。
スイスイススーイ ススイスーイ。どうにかなるだろう。なんとかなるだろう。

世界中に建てられてるどんな記念碑なんかより、あなたが死んだせいで建ってるデカくてクソ邪魔な記念碑を。どんなに意味がなくても、僕は眺め続けて生きていこうと思う。

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