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HSPと「普通」と美大のはなし

いわゆるHSP(Highly Sensitive Person/ハイリー・センシティブ・パーソン)の特性を持つ人たちは、世の中の「普通」に適応できない自分を卑下しやすい傾向があると思う。

子供のときから親と異なった感性・感覚を持っていたために「育てにくい子」「神経質な子」という認識で養育されてきた人も多いだろう。

そのため自己肯定感も下がり、必要以上に世の中の「普通」にあこがれや強迫観念を抱いているHSPもいる。

「普通はこうなんだから、我慢しなきゃ」

「普通の人はこれくらいできてるから」

こういう自分の心の声に追いつめられる感覚は、私自身もとてもしんどかった。

ところが、世の中には「普通」を追い求めない、むしろ毛嫌いする世界があるのを知った。

それはクリエイティブ、何かを創造する世界だ。

ひょんなことから美大に入学したとき、私はその世界に救われた。

狐教授との出会い

もともと私は、大学に進学する予定ではなかった。昔から親の口癖は「金がない」だったので、真面目な私はその言葉を鵜呑みにし、高校卒業後はビジネス系の専門学校に行って資格を取り、手堅い会社に就職しようと思っていた。

それが、高校3年の夏に父はいきなり「大学に行け」と言ってきた。

嘘やろ、高3て。

しかも大学進学を要請してきた理由は「高卒おやじの学歴コンプ」である。母が「高卒のお父さんのために、どこでもいいから大学に行って頂戴」と言ってきたときには、まじで両親に絶望した。高3の夏にそれ言うか!?

まあそんなどうしようもない理由で大学進学とやらを要請された私は、当然ながらセンター対策などやってないし、進学したい大学も特になかった。

たまたま美大の学生募集パンフを手に取り、ぶらっと夏期講習(美大なので高3生向けに絵や小論文の講習があった)に参加したところ、講習の指導担当教授(狐教授/仮名)になぜかものすごく気に入られた。

入学後に複数の先生から「ああ、君が狐さんが言ってた子か」と声をかけられるくらいには目を付けられていた。怖くて理由は聞いてない。

「君。うちの大学受けるよね?」

講義棟の白い階段の上で振り返り、私の鼻先に人差し指を突き付けて真顔でそういった教授の姿は今でも覚えている。

「えっ、はい」

「OK」

そんな感じで、勧められるままに郵送で個別指導を受け、秋期講習にも参加し、次の春には講義棟の白い階段を教授と並んで歩いていた。今考えても、狐につままれたような流れだ。

私の運命を変えたのは、間違いなくこの狐みたいな教授だった。

美大という世界

親元から離れ、美大という場所に行ったことで、私の感性・感覚・価値観は、初めて自分の手元に戻ってきた。

自分の思考や感性にじっくり向き合い、掘り下げて突き詰める。それが許される時間と環境、そして評価される場があった。

それは「育てにくい子」「神経質な子」と言われて「普通」との距離を常に気にしていた自分が、初めて「普通はそうかもしれないけど、私は嫌だ」と自己を確立して生活できた時間だった。

「あっ、世の中の『普通』を忖度しなくていいんだ!」

私が美大で感動したのは、まさにこの美大特有の世界観だった。

美大では「普通」は誉め言葉ではない。

「普通」はありきたりであり、没個性であり、保守的であり、「自分の中でしっかり考えない怠け者のアイデア」を指す言葉だった。

ここではいかに「普通」を脱し、「普通」をひっくりかえし、「普通」を高く飛び越え、あるいは深く掘り下げて、どこまで行くか?

それを追求することが「あたりまえ」だった。

自由に、どんなことを考えてもいいし、どんな表現で具現化してもいい。繊細でも大胆でもいい。純度を突き詰めても、カオスを楽しんでもいい。すべてを破壊しても。

私はこの世界が快適で、産みの苦しみすら快感で、楽しくて仕方がなかった。

私と同じように「育てにくい子」「神経質な子」だったろうな、という仲間もたくさんいた。ものすごく個性的でわくわくするような世界観を持った人もいた。

もちろん、みんながみんな、楽しい美大生活を送っていたわけではなかったと思う。美大の学生の中には「才能」や「嫉妬」に振り回されて潰れる人もいた。

私はひょんなことから美大生になったので、デッサンの技術力の面ではたぶん学年で一番下手だったかもしれない。だから皆が私より上手くて当然、と諦めがついていたのが良かった。嫉妬すら湧かないので、気が楽だった。

それに、当然ながら美大の授業はデッサンや絵画だけではない。写真や彫塑、染色や映画やCGまで、さまざな表現技法をひととおり習った。習った上で、自分は何を使って何を表現したいのか、考えなさい、というスタイルだった。

だから、人の作品と自分の作品を比べる意味はないと思っていた。デッサンの上手い下手を競うのは入試までだ。入学したら、その後は自分との対話で忙しい。

自分が何をどこまで表現できるか、自分の意図は人にはどう解釈されるのか、そんなことが面白くて仕方がなかった。

豊かな感性をもち、深く考えることに満足を感じるHSPにとって、これほど恵まれた時間があっただろうか。

大学時代に自分がHSPだと気付いていたら、もっともっと色々なことを吸収して、もっともっと色々なことを考えて、もっともっと自分を信じて作品作りをしていたかもしれない。

それくらい、「普通じゃない何か」を是とする世界は心地よかった。

後日談

社会に出て就職したビジネス・クリエイティブの世界は、美大とはまったく異なる修羅の世界だった。クリエイティビティより体力と忍耐力が試される世界だった。

ありていに言えば残業とパワハラ。心身に不調をきたしたために私はビジネス・クリエイティブの世界にはいられなかった。このへん、HSPの脆弱さがどうしようもない感じではある。

一般企業で働くにあたっては「普通」に振舞うことのプレッシャーは確かにあった。

でも私は「普通=正義」という前提はまぼろしだと知っている。

「昔からそうしているから」というだけの理由で、社内で「普通」「常識」が定義されることも。

だから私の中で「普通でいいの?」と問い続ける心の声は消えないし、「普通と違う」ことに怯えたりもしない。

「育てにくい子」「神経質な子」だった私が、自分自身の感覚を信じる力を養えた。あの4年間は、そんな時間だった。

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