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学ぶほどに無知を知る|小説書きの日常エッセイ

 ある日、小説を書いていて、ふと思った。
「これって本当に起こりえるか?」

 今書いているファンタジー小説の舞台は、山岳地帯にある小国。山といっても岩山で、植物が生えない不毛の土地だ。そんな国で、主人公は米を食べていた。

「米って水がないと育たないよな。こんな岩山で、水田が作れるのか?」

 水だけじゃない。田んぼを作るには平地も必要だ。考えるまでもなく、山岳地帯で稲作は不可能だと判断した。輸入して米を入手できるが、雑草も生えない土地なら農耕自体が不可能だ。よく考えれば分かることなのに、すっかり考えから抜けていた。

 日本人にとって米を食べることは、日常で行う普通の行為だ。だから作中でも米を食べていた。しかし米食に馴染みがない外国人から見たら、なぜあえて米を食べるのか、理解できないだろう。それに有識者から見れば「こんな土地で米は育たない!」「交易自体無理だ!」とお𠮟りを受けるかもしれない。それぐらい不自然なことだった。

 そんなことにも気づけないなんて。自分の無知が恥ずかしい。
 結局作中では狩猟メインの生活スタイルに変更した。公開前に気づけて、本当によかったと思う。

 しかし改めて考えると、岩山に囲まれた地で暮らしている人は何を食べるのだろう。

 その答えを知るには、同じ条件で暮らしている人々の生活を見ればよい。現代では輸入ありきの時代になったため、一部参考にならないこともあるだろう。そんな時は過去を振り返ったり、昔から続いている伝統的なものを見ればよい。

 調べるためには、作中で舞台となった世界に近い現実世界を探す必要がある。どの国のどんな場所に住んでいて、どんな暮らしをしているのか。文明レベルや年代も考える必要がある。小説の舞台はサラッと考えていたため、細かく設定していなかった。ここから考え直さなきゃならない。

「何を食べるかだけで、そこまでしないといけないの?」
 そう思うかもしれない。実際私も面倒だなと思う。しかし作中ではサラッと出るだけの簡単な情報だが、作者はそこまで考えねばならないのだ。

 二次元である小説は、現実世界と関係ない。やろうと思えば、いくらでも好きに書けてしまう。しかしこういった細部に、読者はリアリティを感じる。作家としての知性や、適当に書ける小ネタに手を抜かない作品作りの姿勢を感じるのだ。

 正直、アマチュア作家でここまで考える人は少ないだろう。なんとなくの勢いで、好き勝手に書けるのが魅力なのだから。
 しかし読者に誠実であるなら、作品に誠実であるなら、見逃せない部分である。

 現代はネットがあるおかげで、検索すれば何でもすぐにわかる。私の知りたい答えもすぐに出てくるだろう。しかし様々な岩山に囲まれた土地を知りたくて、私は「世界絶景集」のような写真集を読んでみた。すると今度は、地質や地形の成り立ちに関する情報が出てきた。

 おいおい、理想的な土地が「この地形になったせいで地質が酸性になったから、農耕不可」とかになる可能性もあるのか。

 海底が隆起して生まれた土地だから「過去に人間が住むのは不可能」となるのか。

 食べ物の話から文明の話になり、今度は地形の成り立ちまで考えないといけないのか。

 調べれば調べるほどに、知らないことがどんどん出てくる。簡単に答えが欲しいだけなら、ネットですぐさま知れるだろう。しかし誠実に作品と向き合おうとすればするほど、知識が必要になってくる。

 新たな課題が出るたびに、自分の勉強不足を責めたくなる。しかし責めてもどうしようもないので、文句を言わず勉強することにする。「このままでは生き字引になってしまうな」なんて笑っているけど、結果的にそうなるかもしれない。学問の深淵を覗き見た気がした。


こんなところまで読んでくださって、ありがとうございます!