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春を待つ



少しずつ暖かい日が増えて春が顔を覗かせている。

私は昔からずっと春が一番好きで、「新しいもの」が好きというよりは"新しくする"ことが好きだ。
新学期には決まって筆箱やらファイルやらノートやら、何かを新しくしたいと母にねだった。
とはいえ新年はあまり好きではなくて、気温というものは心模様を変えるには十分だ。


そんな春が近づいてきてウキウキの私は、桜の盆栽を買った。

ミンギュさんに会いに行った神戸でたまたま出会って吸い寄せられるように入った店の店名が「SAKURA」だったこと。それを"きみが生まれた頃、歳を重ねる頃に咲く花"だと何気なく思ったこと。
春に咲く花はたくさんあるけれど、あの思い出があるから私は桜がすごく嬉しい。




東京で暮らしていた頃、ときたま植物を迎え入れていた。
まだ家具も揃ってないのに大きな観葉植物を買ったし、サボテンはお花屋さんでたまたま足を止めたタイミングが同じだったおばあちゃんと話しながら決めたな。ピンクの小さい花を咲かせたサボテン。これにしましたって伝えたらかわいいねえって一緒になって喜んでくれた。
それと盆栽も。ころんとした鉢に小さな世界が広がっているみたいでたまらなかった。

盆栽と赤ちゃん




しばらくしてサボテンの花は顔を見せてくれなくなって、盆栽の葉は落ちてしまって、みんな何となく元気がなさそうで。それよりもまず私の元気がなかったのだ。
地元に帰ってから、枯らしてしまったこと、悲しかったことを友人に伝えたとき、「植物って悪い気を吸ってくれるんだって」と教えてくれた。
ごめんね、でもひとりにしないでくれてありがとう。おかげさまです。

私の帰る場所がどこなのかわからなかったとき、言い聞かせるための呪文みたいだけどこの子達がいる場所を居場所だと思おう、と決めた。植物を愛でたい気持ちが強かったというよりはもしかしたらなにか愛着を持たなければこの世界と手を繋いでいられなかったのかもしれない。でもきっと呪文はいつからかおまじないになっていた。おまじないはキラキラしている。


私はもうすっかり元気で、仕事も生活も心も頑張りすぎなくていい環境を整えて余裕が出てきて、今度こそちゃんと育ててあげられるかもなって。
長く長く共にできる盆栽がいいなとぼんやり思っていて、桜があると知ったとき、胸が溢れそうだった。

去年のお誕生日はドライフラワーを買って、それからきみとの記憶のそばに花や植物を置こうと決めていたけれど、こんなに嬉しいことがあるだろうか。お花が咲いたらどんなに嬉しいだろうか。私が咲かせられたら、どんなに。





きみは夏のギラギラがよく似合うし、冬の淡い色にはあの彩度がよく映える。光を浴びずとも自分が持つ色だけで道ゆく人を立ち止まらせることができる人だなと思う。

だけどやっぱりきみは春風だ。これから何かが始まるんだってワクワクを連れてくる、力強い春いちばん。

春が過ぎて、夏になったら葉になって、冬は枝だけになっても寂しくなんてなくて、何度も繰り返すことができるし、何度繰り返したって同じになることはひとつもなくて。

うれしい。うれしいな、それだけ。

「待つ」というのは心に希望を宿すことなのかもしれない。私はきみの光に照らされて、きみの風を感じられる場所にいる。


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