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共感性についてのメモ

ダメな自分を受け入れる。自分の欲求を知る。自分のことをとことん受容して、受容して、愛する。自分を大切に感じる。その時、他の人も同様に大切な一人一人なんだと実感する。他者を尊重するのが当たり前になる。自分=他人の感覚になる。そうやって育まれるものが共感性なのかなと思う。

私の感覚としては、自分のことを大切にしながら他者を損なうことはできない。それができる時は、本当の意味では自分を大切にできていないと思う。自分を本当に大切にして受容したとき、同じように大切な存在である他者を損なうという選択肢は出てこない。もしかしたらこれは感覚の話なのかもしれない。

(そして同様に、他者を大切にしながら自分を損なうということもできない。それができる時、本当の意味では他者を大切にできていないと思う)

この感覚が自分の中に芽生えたあたりから、私の価値観は変化していった。勝ち負けや、損得や、優劣や、そういったものに違和感が芽生えていった。戦う・比べるということにピンとこない。私も、あなたも、同じくらいとても大切な存在だから、そこを分断して優劣をつけるような行為に、共感ができない。

以前は自分の共感性に振り回されることが多かった。HSPなんだろうなと思っていた。いろんな事が気になったり、人の感情に疲れてしまったりしていた。
「自分=他人」の感覚が芽生えてからは振り回される感覚はだいぶ減った。変わらず感じ取れるものはあるけれど、私は私でどっしりと立っている感覚。これは不思議。他人との境界線が無くなったことによって、逆に心に境界線が芽生えた?おろおろと相手の感情に振り回されることは本当に減った。

以前の共感性に振り回されていた頃の私は「私を傷つけるのも人だし、私を幸せにしてくれるのも人」という世界で生きてた。
人といると幸せで、でもまた傷つかないかなぁとビクビクするところもあった。
でも最近はその感覚も減ってきた。
傷つかなくなったわけではないけど、「傷つけられる」という感覚から「傷つく」という感覚に変化した。私自身が傷つくことはあるけれど、それは一方的に傷つけられるという行為ではない、という感覚。傷つくことに覚悟ができたんだろうか。傷つくことも受け入れたのかな。

共感性が高まるとともに、以前より増して自然の美しさに心が満たされるようになった。
ただ自然を眺めていること 森や海や川や夕日や青空や星空 はぜる炎やコーヒーから漂う湯気 複雑にも自然に織りなっているその姿にただただ惹かれる。ぼ〜っと眺めている時、私は満たされている。

音楽を聴いている時の感動も増した。(私の中で音楽はなぜか自然のジャンルに入っている)音の一つ一つに心が震える。メロディの連なりに、コード進行に、神がかりすぎていると感受性メーターが跳ね上がる。音楽は神様からの贈り物だと思う。それをミュージシャンたちが発掘してくれてるんだろうなって思ってる。


共感性について、いろいろ感じたことをまとめてみた。
ただ振り回されていた頃から変化してきてる。

共感性は、私に世界を美しく見せてくれた。そして、ここまで連れてきてくれた。とっても大切な宝物だなと思う。


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