【R18】 永遠の三日月 ⑤
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Ⅲ. 三日月夜
✻街路に出たとき、人々を見て最初に頭に浮かぶ言葉は「皆殺し」である。
E・M・シオラン
洋輔が死んだと聞かされたのは、学生時代の友達からの電話だった。
学校を卒業して以来、洋輔には会っていない。会いたいとも思わなかったし、会う必要もなかったから。
「お通夜出るよね。夏っちゃん、昔付き合ってたんだし」
電話の相手は、断定的な口調でそう言った。
洋輔と付き合っていたのはもう十年も前の話だ。今さらそんな話を持ち出されても困ると思ったけれど、一方で、わたしには密かな期待があった。良太に会えるかもしれないと。
「他には誰が出るの?もうみんなに連絡した?」
「ああ、夏っちゃんが最後なんだ。川隅、尾沢、杉屋、朝日奈、雨宮姉妹と後藤さんも行くって」
朝日奈。良太の名前に、わたしの胸はときめいた。昔の恋人の訃報を聞いたばかりだというのに。
「そう。それじゃあ出ないわけにはいかないわね。お通夜なら、明日のバイトキャンセルしても怒られないかしら」
「夏っちゃん、会社辞めたの?」
「うん。ガードマンやってるのよ、今」
「へーえ、驚いたな。かっこいいね」
「暗いスタジオで仕事するのいやになっちゃってね。お給料は前よりいいわよ。日給一万円だもの。休みも取れるし」
「そうかあ。うらやましいな。俺もそのくらい高給取りになりたいよ」
「みんなそう言うけどね。あんな危ない仕事してるんだから、それくらいもらわないと割が合わないわ。3Kなのは前も同じだったけど」
しばらく近況報告をしあった後、翌日の打ち合わせをして電話を切った。
気が付くと、わたしは二十九歳になっていた。
八月になれば三十歳。いわゆる大台に乗ってしまう。
二十五を過ぎた頃から感じていた焦りは、三十を目前に控えて諦めの気持ちが混じるようになった。
九年勤めた撮影会社は、去年の末に退職した。
わずかばかりの退職金でしばらくブラブラした後に始めたのは、前職からは想像もつかない、工事現場の警備員というアルバイトだった。
月に二十六日以上勤務すれば日給一万円。日数が少なくても最低八千円という待遇も魅力だったけれど、この仕事を選んだ最大の理由は、電話で話した通り、太陽の下で働きたいということだった。
毎日毎日、黒い壁と黒い床と黒いカーテンに囲まれて一日十四時間も働いているうちに、わたしの精神状態はおかしくなっていた。
胃の痛みと吐き気から始まって、頭痛、肩こり、腰痛、倦怠感、めまい、喘息のような激しい咳、指先の痺れ、瞼の痙攣など、神経から来ると思われるありとあらゆる症状が出ていた。
それでも過度の疲労のせいで、不眠症にだけはならなかったのが唯一の救いと言えた。
顎関節症の治療のために通っていた歯科のドクターは、日に日にひどくなるわたしの体調を心配して、大学病院の精神科を紹介しようと言ってくれた。
幸い退職を決めたおかげでその必要はなくなったが、雇い主に意思を告げた時のわたしの状態は最悪だった。
喉への負担を減らそうとタバコを吸わなくなった代わりに、アルコールの量が増えていた。
飲むのはビールよりも、ジンやリキュールなどの度数の高いものばかり。それを毎晩水のようにあおって布団に入った。
眠ることだけが慰めだったのに、眠れば必ず夢を見た。階段の夢だ。
崖のように垂直に切り立った長い階段を、わたしは上っている。 “登っている” と言った方がいいかもしれない。
一段が自分の身長ほどもある長い階段を、フリークライミングのように登っているのだ。
登りきった後には何が待っているのか知らない。ただわたしは永遠に続く階段を登り続けている。
それが下りの場合もあった。
学校にあるような廻り階段を駆け下りている夢だ。
上りの時と同じように、階段はいつまでたっても終わらない。わたしの足は次第に加速度が付いて、段をいくつも飛び越しながら、どこまでもどこまでも下り続ける。
疲労とアルコールの力で寝付きはよかったけれど、目覚めはすこぶる悪かった。
起きて三十分もすると、いつもの頭痛がやって来る。
常用している、歯科でもらった「一番強い」という鎮痛剤を胃に流し込んで家を出ると、今度は足が動かない。
全身が蜘蛛の糸に搦め捕られたように重く、思うように前に進めないのだ。
気ばかり焦って身体が動かない、夢の中に似ていた。
あの頃わたしがしてみたかったのは、 “殺すこと” だった。
自分でも他人でも動物でも、なんでも構わない。頭から返り血を浴びながら、内臓を抉り出して、そこに顔を埋めてみたかった。
中でもとりわけそそられたのは飼い猫だった。五年以上一緒に暮らしている、斑模様のメス猫。
彼女はわたしに絶対の信頼を寄せているらしく、柔らかい喉に両手を当てると気持ちよさそうに目を閉じて、ゴロゴロ言う声を出した。
そのまま指に力を入れても、なんの抵抗も示さなかった。
手を離すと、次はベランダに連れて出た。
両腋を掴んでブランとぶら下げたまま、手すりの向こうに差し出す。細い手すりの上を歩くのが得意な彼女でもさすがにそれは怖いらしくて、足を縮めて身体を固くした。
無抵抗な彼女はわたしを残酷な気分にさせる。
それでもわたしには猫を殺すことはできなかった。彼女が居なければ、わたしは誰を愛せばいいというのだろう。彼女よりも近くに居る存在なんて、わたしには他にないのだから。
洋輔の家は桶川にあった。
改札口で待ち合わせたわたし達は、彼の家までタクシーを使った。良太は車で直接行くことになっているようだ。
門の前で車を降りると、庭に置いてあるらしいスピーカーから音楽が流れているのが聞こえてきた。
フォークソングだった。十数年前に流行った “四畳半ソング” というやつだ。
学生の頃、洋輔が好きだった曲。彼はいまだにあんな歌を聴いていたというのだろうか。
洋輔の死因は腎不全だったそうだ。お焼香を済ませた後で、彼の母親が話してくれた。
付き合っていた頃、二度ほどわたしはここに来たことがある。けれど、彼女はわたしを覚えていないようだった。その方がこちらも好都合だと思った。
初めてこの家に連れてこられた時、あまりのだらしなさに驚いた。
家の中にはシーズーが二匹居て、そこら中に齧りかけの犬ガムが転がっていた。
それだけならまだしも、犬のトイレがひどかった。風呂場の入口に置いてあるバスマットが、犬達のトイレになっていたのだ。
手を洗いに洗面所に行ったわたしは、危うくマットの上のものを踏んでしまいそうになった。
この家の人間は、あのマットの上を通ってお風呂に出入りするのだろうか。
洋輔も家族も、それについてなんの疑問も持っていないらしかった。
洋輔は当時、両親をとても嫌っていた。
「親父に女が居るんだ」と彼は言った。そして、それを知りながら黙っている母親が許せないのだと。
だからどうだと言うのか。
そんな青臭い正義感でなんとかなるほど、男女の仲は簡単ではない。永遠の愛なんてものを信じている彼が、わたしにはとても幼く見えた。
夕食の時間になると、お姉さんが二人分の食事を部屋まで運んできた。
洋輔は家族と一緒に食事をしていないらしかった。そして、ハンバーグに付け合わされていた野菜に、彼はまったく手を付けなかった。
子供なのだと、その時思った。彼だけではなくて、彼を許している家族全員が子供なのかもしれないと思った。
この家に流れている甘えた空気が、わたしはとても嫌いだった。
良太は三十分ほど遅れてやって来た。
喪服姿の彼を見て、スーツを着ているのを初めて見たことに気が付いた。
当然だけれど、学生時代の彼はいつもジーンズだった。そして職業柄、それは今でも同じだろう。
あのネクタイで首を絞められたい。頭の中に、そんな不謹慎な考えが浮かんだ。
卒業から四年後に再開した良太との関係は、彼の独立と転居のせいで、またいつの間にか終わっていた。数年前に出した年賀状は、移転先が不明で戻ってきた。
始まる時はカットインなのに、終わりはいつもフェイドアウトだった。
もしかしたら、彼はわたしから逃げたかったのかもしれない。
わたしだって、できることなら忘れたい。でもいつまでたっても忘れられない。そうして、わたし達はまた出会ってしまう。
良太との再会は、新しい罪の始まりだった。
遺影の前に設けられた酒席では、昔話が花を咲かせていた。
美散は洋輔とそれほど親しかったわけでもないのに、着いてからずっと泣きっぱなしだった。
わたしは出された料理に箸も付けず、友達との会話に生返事をしながら、斜め向かいに座った良太ばかりを見つめていた。車で来ている彼は、清めのビールに口を付けただけで、タバコを片手に話に参加していた。
相変わらずヘビースモーカーなのだわ、と思った。
なんとなく、わたしの視線を避けている気がした。
二時間ほどで洋輔の家を辞去すると、飲みに行く話が持ち上がった。久しぶりにかつての仲間が顔を合わせたのだから、当然だろう。
けれどわたしは思い出話よりも、良太と一緒に居たかった。彼は車だから断るかもしれない。
「どうする?」と聞かれて戸惑っていると、「俺はパス」と良太が言った。
「車あるし、ちょっと仕事残してきてるんだ。悪いけど帰るよ」
「わたしも帰るわ。いつも朝早いから疲れちゃって。明日のお葬式には出るから」
慌てて付け足した。
「ガードマンですって?すごいわねえ」
やっと涙が止まったらしい美散が言った。
社内恋愛で結婚した彼女は、今では二児の母だ。仕事はとうの昔に辞めている。
「そんなすごい仕事でもないわよ。ただ現場が遠いから、二時間前には出ないといけないの。始まるの、八時なのによ」
「何時に起きるの?」
「五時。大田区とか江東区とか、そういう所ばっかり。わたしの家、練馬なのに」
言い訳めいた愚痴をこぼしていると、良太が言った。
「俺、送ってってやろうか。どうせ同じ方向だし」
その時初めて、彼はわたしと目を合わせた。
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