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金具屋の歴史その2(明治時代1868-1912)

江戸末期から明治初期の資料によりますと、湯田中や渋温泉は湯治・逗留のみならず歓楽(博奕・女性関係)も盛んであったそうなのですが、まだ観光旅行ということはなかったようです。ただ渋温泉の通りは、群馬県の草津から善光寺への草津道の一部でありましたから、旅籠という要素は古くから持っておりました。

明治~大正時代の金具屋の建物の様子です。

明治~大正時代の金具屋本館
金具屋本館と2号館

玄関部分の金具屋本館、そして2号館です。(奥には会津屋さんやお薬師さんにいく階段もありますね)
湯治逗留、または街道の立ち寄り用の建物ということで、建物にもほとんど装飾はみられません。2号館については呉服屋さんの建物を買い取ったものだそうです。徐々に客室数を増やしていったのがわかります。

そしてとうとう、明治21年、長野駅から上田駅が開通し、東京からの鉄道網が開通。善光寺参拝旅行という観光旅行が始まります。明治42年、高崎ー長野ー新潟間が信越線という名称になりました。

ちょうどその頃、恐らくはこの鉄道の動きに合わせて明治41年に完成させたのが「潜龍閣(現・潜龍荘)」。それまでの逗留用の客室とは異なる庭園付きの豪華な客室棟を作りました。

潜龍閣(現在の潜龍荘)玄関

特に一番奥に配置をした「白書院」「黒書院」は高官のみを泊める客室とし、一般には使用させなかったということです。(※白書院・黒書院は現存し、現在は一般の方でもお泊まりいただけます)

日本中「老舗」の旅館というものはたくさんありますが、東海道周辺を除いては、この時代が観光旅館の発祥で、わずか100年そこそこ。他の職業に比べたらだいぶ近代のことであるというわけです。

金具屋も湯宿の創業は270年ほどになりますが、観光旅館としてはそれほどではないということなのです。


ちなみにこちらが明治時代の渋温泉の全景。

写真に写っている橋は「和合橋」。そこから街中へまっすぐ線を伸ばして突き当たりの手前向きの建物がもとやさん、そこから奥に松屋さん、湯本旅館さん、大湯、大きなのがひしやさん、そして金具屋となります。潜龍閣がわかりますが、木造4階建斉月楼はまだありません。ほぼこの辺りは屋根の形が今も変わりません。

しかし、川沿いの方はだいぶ今と違いますね。渋湯橋も黒川橋もありません。その辺りができるのは、川が造成工事されてからということのようです

明治末期頃の渋温泉全景

ちなみに紛らわしいのですが、2枚目の写真に「潜龍館本館かなぐや」という文字が傘に書かれています。この「潜龍館」というのは、ある方に名付けられた特別な屋号で、当時渋温泉の古くからある宿が命名されたものです。現在の屋号でその名を名乗っているのは「洗心館 松屋」さんのみですが、ひしやさんにも「棲鳳館ひしや寅蔵」という看板が残っています。当館は「潜龍館金具屋平四郎」という屋号だったのです。

なぜ龍が潜む館なのかは、また別の機会にご説明できればと思います。

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