【日記】コピペじゃない文章を書きたい

みなさんのあきやさん講演会の感想を薄めで読んでいて、アーカイブを見る前に一度現時点で何か言葉にしたくなったので、日記を書いてます。

試写会で映画を観てきました

もちろんのことネタバレでもなく、そしてそもそも感想もなく、あきやさん講演会の感想と共に考えたことについて。

映画については、特別の想い入れがあった作品だったゆえに未だ感情が落ち着かないところがあり、自分の思い入れが影響して、人に見せる言葉にもできていないことがたくさんあって、本音の部分については、まだ友人と語るのも難しいかもしれないのが正直なところ。

自分の咀嚼のため、メモレベルとしては気持ちを羅列はしてみたのだけど、世間の目に触れる形でのアウトプット形式で、近いうちに感想を書くのか(書けるのか)、まだわかりません。

その理由としては、映画の内容やネタバレ配慮うんぬんという以前より、試写会という形で観たために正式なレビューが上がる前に観たことが大きいと思っていて。

感想を書くことについて

今までだと、作品の感想を言葉にする前に、同時か先に見たネットに上がった膨大なレビューや信頼できる発信者の方のレビューを読み漁り、その中で私の解釈と近しいと思う感想と、気持ちに相応しい言葉で書いてる人のを見つけて、それを読むことで、気持ちの咀嚼していました。

なので、改めて自分の言葉で感想を書くということはあまりせず、その言葉が鋭く的確である人や、まとめ方が素晴らしい人を自分の言葉のように満足していました。

ただ今回、図らずとも、その信頼できる人達や他の言葉を受け取る前に見ることになり、レビューに触れる前に、咀嚼するには先に自分自身で言葉にせざるを得ない状況になりました。

ただ、それをやろうとしてみて、思ったのは、今までそれを怠っていたせいか、自分で思っていた以上にうまくまとめることができなかったこと。

そして、今まで、自分の感想というか解釈を1番先に表現することを恐れていたことに気が付きました。
恐れていたために、避けていた。それが慢性化していた。
もし感想を言うとしても、周りの出方を伺い、自分が適切と思えたフォーマットに載せる形で書いていたように思います。

媚びない問題

自問自答ガールズとして発信することを決めて、最初は反応に怯えながらの発信でした。
ただ最近は、今年の目標を据えたおかげか、私の経験した個人の出来事については、どうやっても私の出来事でしかないという免罪符により、それが事実なのだからと思えるようになり。
新年に掲げた"媚びない"を自分比で少しずつできるようになってきたのかなと思っていました。

ただ、今回のように、みんなが書くようなテーマに関する感想、例えば、映画の感想だったり、あきやさん講演会に関して。

他の人の意見と違ったらどうしようと思う自分。この状況に相応しいのはどういう文章、どういう体裁なのかとみんなの出方を伺いたいと思う自分。
まだまだ自分に"媚び"があることに気が付きました。

Twitterを禁じてみて

今回、映画のネタバレを避けるために、Twitterを封じていたこと、それも気付けた理由のひとつだと思います。

今までだったら、Twitterで"気持ち"程度なら
安易に呟くことができた。人の言葉をすぐ見つけて、自分の気持ちに輪郭をつけることで、消化不良もすぐ解消できていた。

ただ今回その慣れ親しんだ手段を一時的に制限されて、自問自答ガールズが書く、まだ視聴していないあきやさん講演会の感想noteが続々とアップされていくのを目にして。

noteのようにまとめないといけない感想を、今まで何も見ずに1番先に書こうともしていなかったなということに気付きました。

発信の怖さから逃げてた

思えば、私の記事のアンサーnoteが多い理由も、影響を受けて発想が浮かんだという側面もありつつも、発信者のリプライという建前を借りて、その上で、発信することで、自己発信ではなく、発信へのリプライであるという状態に近くなることに、安心感を覚えていたんだと思います。

自分の"想い"の良し悪しは別として、自分自身がそのテーマに対する"空気"を作ること、なんとなくその後に流れる"ルール"のような一部を作ることを恐れて、それを避けていたんだなと思います。

批判されることを恐れて、周りが作りあげた"ルール"のような見えない枠の中で、安全に泳ごうとしていた。

それ自体は弱い自分にとっての生存戦略とも言えるけれど、それって本当に"媚びない"と言えるの?と。

効率や質は高いのかもしれない

私自身の言葉で書くよりも、多分ずっと読みやすく、興味が持ちやすくなるという"見せる"を意識していたという側面や
伝えたい"想い"や自分を知るを書くという目的に関しては、型を借りるということで、"効率"的なことを意識した側面もあります。

それ自体については適切なアウトプット方法とも思う自分もいるのですが。

いわゆるフォーマットをコピペして編集するスタイルであり、自分の文章スタイルで自由に想いを語ろうとしてこなかったなと。

これが"効率"を求められる仕事であれば、その判断も正しいと考えるし、なんならフォーマットに合わせること自体が求められていることなのかもしれません。

私生活であっても、インプットをアウトプットする目的、多くの人に読んで欲しい目的、インスパイアされたなど、きっと状況や必要に応じて、これからも活用したいとは思っています。

そのスタイル自体も個性の現れだとも思っている。

75本書いてみて

でも私が"媚びない"を目標にした時から、本当にしたいことは、多分それらの目的というよりは、自分の文章のスタイルを見つけるということだったんじゃないかと。

あきやさんがずっと100本書いたら自分のスタイルが見えてくると仰っていて、それを目標にnoteの発信を続けてきました。

実は、前の記事で、自分のnoteが75本目の投稿だったのですが。

3/4書いてみて思ったのは、まだまだ全然自分のスタイルが分からないということ。
自分の文章の"フォント"が見えてないことに焦りを感じ始めました。
(唯一文字数が多いのは理解した)

読んで下さった方から、私の文章を"私らしい"と言って下さるのこともあるので、もしかしたら私以外の人には見えて、透けてはいるのかもしれないのですが。

ただ私自身がそれを残りの1/4で分かるようになるのか心配になってきたところだったのですが。
ぜそれが見えないと感じていたかの理由が今、分かったように思います。

それはフォーマットを自分で作っていない=自分のスタイルではないという、気持ちが自分の中にあったせいなんじゃないかと。

本当にしたいこと

noteを書き始めて10ヶ月。
1年以内に75本も書けたということは、フォーマットのシンクロ率やアウトプットの質、書けた時間は別として、フォーマットの借りる形式での文章であれば、比較的思い付く方なのかもしれません。

今まで生きてきて、自然とインプットをしてきて、好きなものを摂取しているので、それらを参考にしないのは無理な話だと思うのですが。

意識してなくても、無意識にこちらの文章でさえだれかのフォーマットを見た結果なのかもしれないけど。

それでも私にとって、それらに"媚びない"というスタンスを意識的には取ることが必要なんではないかと。

人のフォーマットを借りない文章が書きたい。

コピペしないで自由にありのままに文章を書き始めたい。

人から見たら、それは結果的に大きな変化でなかったとしても、結果的にアウトプットとしての効率や品質が下がったとしても、常識外れと笑われたとしても。
人が興味を持たなかったとしても。

それが私が本当にしたかった文章の発明であり、媚びないなのかもしれません。


おしまい

追記

自分のメモを読み返して、こちらのnoteの影響を受けていたことに気がつきましたので、追記。

このnoteの文章、自分の中の言葉に全く嘘はないけれど、気付かぬ人のフォーマットを無自覚に採用してしまっていて、頑張って自覚的であろうと、全部はそれに気付けないことも多いと自戒、追記しておく。

長期的な何かに還元したい🧧❤️‍🔥