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恋なんて、言わばエゴとエゴのシーソーゲームではないのかもしれない。

恋なんて、言わばエゴとエゴのシーソーゲーム ー 「シーソーゲーム〜勇敢な恋の歌〜」/ Mr.Children

何度、恋をしてもこのワンフレーズは、色褪せることがない。またここに戻ってきてしまったかと、成長しない私を少し憎む。
ゴールのないわがままや欲求は、情けないもののようにも思えてしまう。「押し付ける」という言葉がお似合いか。「勇敢」と賞賛できるほど、私は私のエゴを可愛がれてはいない。

これは、エゴか、エゴじゃないか、心のうちで葛藤しているくらいだったらまだよかったのかもしれない。しかし半年ほど前のこと、私のそれは、言葉のかたい元カレによって、いよいよ形を帯びる。「それはエゴだよ」と。

結局、私と彼のエゴは重なり合うことはなく、ミスチルがどうして「イェーエーエー」なんて叫べてしまうのかを、今日、ひとり、考えている。

そんな私が、タイトルの通り、このミスチルの名フレーズを覆そうとしている。

「恋なんて、言わばエゴとエゴとのシーソーゲーム」ではないのかもしれない。

心許ない私の反論を支えるのは、大学で学んだ「ナラティブ」という1つの用語だ。

ナラティブ(narrative)・・・物語、つまりその語りを生み出す「解釈」の枠組みのこと ー 引用『他者と働く「分かり合えなさ」から始める組織論』/宇田川 元一 

ナラティブとは、立場や役割、専門性によって生まれる解釈の枠組みのこと。

例えば、コロナウイルスの渦中で議論になった「レイオフ」について、日本では、法的に実行が難しいが、批判的な意見が多いのはいうまでもない。一方で、実際にアメリカでは戦略的な経営判断として受け止められている。その違いは、ナラティブの違いだと言える。

今日紹介したい本『他者と働く「分かり合えなさ」から始める組織論』によると、それは世の中の目が、日本の場合、雇用問題に向きすぎてしまっているのに対して、アメリカの場合、経営状況の回復にも向いているという視点の違いであるとのこと。

「日本の場合」と国単位で区切ってしまっているが、日本の中でも、経営者の間では、アメリカと同じ視点で議論がされているかもしれない。立場や専門性によって、同じ言語を話す、同い年の彼女・彼でさえも「解釈」は変わる。
どちらが正しいということではなく、それぞれのナラティブがあるということを知ることが大切だと筆者は語る。

こちら側のナラティブに立って相手を見ていると、相手が間違って見えることがあると思います。しかし相手のナラティブからすれば、こちらが間違って見えている、ということもありえるのです。ー『他者と働く「分かり合えなさ」から始める組織論』 / 宇田川 元一

他部署の社員や上司との会話のなかで、自分が正しいことを言っているのに、どうして話が進まないのかと悩むことは、誰しも一度は経験したことがあるんだろうなと思う。私ももちろん、何度も経験した。

こちらのナラティブとあちらのナラティブに溝があることを見つけて、言わば「溝に橋を架けていくこと」が対話なのです。ー『他者と働く「分かり合えなさ」から始める組織論』 / 宇田川 元一

この本では、そのような「働く」場所で、分かり合えない他者と、どのようにコミュニケーションを取っていくか、という問題を紐解いていく方法として、ナラティブに着目した「対話」を提案してくれる。

1. 準備「溝に気づく」
相手と自分のナラティブに溝(適応課題)があることに気づく
2. 観察「溝の向こうを眺める」
相手の言動や状況を見聞きし、溝の位置や相手のナラティブを探る
3. 解釈「溝を渡り橋を設計する」
溝を飛び越えて、橋が架けられそうな場所や架け方を探る
4. 介入「溝に橋を架ける」
実際に行動することで、橋(新しい関係性)を築く

両者の「正しい」が重なる1点を模索していくこの作業は、一見、妥協策や折衷案を繕うといったようなネガティブな試みに思えてしまうかもしれない。
ただ、ここではポジティブに、お互いの解釈を理解しながら、自分の理想を諦めずに伝えていく、愛と夢に溢れる作業と捉えてほしい。

そのことは、本のなかの具体例を読んでいくと分かっていくので、ぜひ本を読んでほしい。

お互いの解釈を理解しながら、自分の理想を諦めずに伝えていく、この「対話」という作業は、「働く」場所だけではなく、友人や家族、そして、「恋人」との関係のなかでも、意味のあるのではないかと、私はふと考えた。

ただ、ご存知の通り「恋」はそう穏やかではない。
サプライズのプレゼントや、会いたいのメッセージは、すべて「正しい」と思っていた私は、いつも青い春のど真ん中に立っていた。

するかしないか、言うか言わないか、を迷うときに、結局いつも前者を選んでしまうのが、きっと「恋」なんだと思う。

もし、相手のナラティブに立ってみて、それは「正しい」のかと、一呼吸おいて考えられるようになったとしたら、もしかしたらそれは「愛」というものなのかもしれない。

残念ながら、結局、恋なんて、言わばエゴとエゴのシーソーゲームなんだと思う。
始まってしまえば、アップテンポの弾むメロディーの上で、サプライズのプレゼントしてしまって、会いたいのメッセージを送ってしまうんだと思う。

だけど、それを愛にしていくヒントは、もしかしたら「ナラティブ」にあるのかもしれない。



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