本棚と抜け殻 中編

実際にはこの小説がどこまで事実に即して書かれているのかわからない。けれども「彼女」の身体的特徴、例えば左右の耳のピアスホールの個数から、親密な関係の人間にしか知りようがない場所にある黒子の配置に至るまで、これらは完全にアリスのものと一致していた。一方で美化した記憶と妄想の、ギリギリの境界を縫うような場面もところどころ存在する。創造物にしては現実に近すぎる。日記にしては装飾が過ぎる。とにかくこの本の粗筋は次の通りだ。

「私」は地方の病院に勤務する精神科医だった。ある日、患者として「彼女」が現れる。彼女は、ある個人的な出来事がきっかけで医者と、少量の向精神薬の助けを必要とするようになった、しかしごく普通の生活を送っているごく普通の女性だった。若い患者が珍しいこともあり、比較的美しい人であるという程度の印象は持っていたが、当時はとりわけ特別な感情も抱かなかった。やがて私は東京に越して病院も移ることになる。当然彼女の担当も他の医者に変わり、その存在を思い出すことすらなかった。再会は一年後、都内の美術館の特別展でのことだった。接吻というタイトルの絵画が目にとまった。既視感を覚えたのはその絵に対してではなく、絵の前に佇む女性に対してだった。わたしの視線に気付いた彼女が振り返ったとき、背後の接吻に描かれた女性と同じ角度で首を傾げ、同じ角度で微笑したことがすべての始まりだったように思われる。天然自然の媚態。彼女の一挙手一投足は、まばたきの速度から他人に甘える際に出す声の大きさまで、異性の関心を引き寄せて離さないために設計されているのだということを既に直感していた。
悪魔の契約だった。偶然にも私のあとを追うごとく東京に越してきていた彼女は再び私の患者になり、そして個人的な関係も結んだ。当然医者として倫理に反する行為だが、患者である彼女自身が倫理に反することそれ自体に元々積極的な性質であったのだった。前々から自身の経験を用いて医療小説を書きたかった私は、モデルを欲していたが、患者の個人情報を私的利用するわけにはいかなかった。彼女は主治医とパーソナルな関係を結ぶ背徳感も手伝って、喜んで私のミューズになることを引き受けてくれた。私たちはいつも喫茶店で互いの身の上話をしたあとで、診察室でもあえて形式的な会話を愉しんだ。彼女は聡明で話していて愉快だったし、私の小説のためにいつも赤裸々な言葉で自分の過去や思想について語ってくれた。
美しい女には破滅が似合う。あるいは、破滅が似合う女のことを美しいと思うようにできているのかもしれない。私だって実際、彼女に出会う前は、自身の小説では再生を描くつもりだったのだ。傷ついたあるひとりの女性の再生。接吻の前で微笑まれて、一変してしまった。筆は面白いように進んだ。私にとってこの可愛くて聡明で、ごく稀にだけ情緒の安定しない女性を、操って、精神のバランスを悪い方向へ導き、いつも不安げな依存心の強い幼女のような人間に変えてしまうのは、残念ながらもそう難しいことではなかった。彼女はたちまち私の腕に抱かれていないと眠れない身体になった。私が水を飲みに起きれば彼女も目覚める。私は彼女が完全なる支配下にいることに、男としてある程度の満足感を得て、飽き足りた。破滅。私たちがたどり着ける破滅の行き止まりなんてせいぜいこの程度のものだった。彼女は決まって私の関心を得ようとキスをせがんだり脚を絡ませて私の身体を甘噛みしたりした。私は気紛れに応えたり応えなかったりして彼女の情緒を振り乱した。キスをして髪を撫でてやれば彼女はたちまち甘い声を漏らして、濡れた瞳で私の欲情を煽ることを知っていたから、事実、欲に負けて要求に応えることの方が多かった。天然自然の媚態だけが唯一、最初から変わっていなかったのだ。彼女から身体を離して冷静になるたびに、彼女の本性、本質に突き当たって浅ましいような気分がした。私にとって、彼女との生活は平凡な毎日に成り下がった。彼女はそんな私の気持ちの変化を、立ちこめる匂いを嗅ぎ取るような自然さで感じていた。
ある朝、仕事に行くなと懇願された。休んで、執筆を一緒にすすめようと。私は遅刻しちゃうから急がないと、とかなんとか言って、彼女の頼みをなんということもなく却下した。仕事を終えて帰宅すると、彼女は死んでいた。死体があったわけではない。コンピュータの中に書き留めていた小説、いつしか書き進めるのを止めてしまっていた小説に、主人公の自殺、という結末が付け足されていた。彼女が書いたのだろう。彼女自身の姿はもうどこにもいなかった。のちに、自殺未遂をして都内の病院に運び込まれたという噂をきいた。それきり会うことはなかった。

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