諏訪敦彦監督の講義をうけた

 「邦画って特に昔はお客が全然入らなかったんですよね。暗いしドロドロしてるし、なんでこんなものわざわざみせられなきゃいけないんだっていう……」と監督自身が授業内で仰っていたそのままの理由で基本的には邦画が苦手で、諏訪監督の作品も観たことがなかったのだけど、ではなぜ監督の授業をとったかというと「せっかく有名な人の授業が受けられるんだから」という完全にミーハー心と気まぐれによるものだった。確かに褒められた理由ではないけれど授業内で「芸術との出会いはショッキングでなければならない」と誰かの言葉が引用されていたように、劇的な出会いに気概はむしろ必要ないような気がする。とにかく目から鱗というか、映像表現に対する新たな視点を与えられた体験の連続だったので、感慨が冷めないうちに思ったことを書き留めておこうと思う。

〇「現代映画」であること

 映画、演劇に関わらず昔から脚本が好きで、ハウツー本も好んでよく読む。それは自分で書いてみたかったからであって、いざ書く時は好きな映画や舞台の脚本上の共通点を考えることから始めていた。例えば敬愛する三谷幸喜は本人が「理数系の脚本家」を自称しているぐらい構成がよく考えられた脚本を書く。言うまでもなくピクサー映画の脚本は、様式美を感じる程徹底して作りこまれている。そのような面白いストーリーが転がるためには前提として登場人物のキャラクターが大切で、ハウツー本にはよく「主人公の履歴書を作ってみましょう」などとアドバイスが書いてある。脚本を書くという行為において脚本家は映画内で起こることをすべて知っている神であるべきということだと理解していた。で、それってなんとなく面白くないな、味気ないな(完璧な脚本があるなら、映像化はその翻訳でしかない)とか思って、そう感じるのは才能のない証拠、(なろうとしていたわけではないけれど)脚本家にはなれないと悟ったのだった。

 だから授業で『2/デュオ』を観て、「一体どうしたらあんなシーン(ユウの友達が遊びにきたあとのくだりが特に印象的だった)が撮れるの?!」と衝撃を受けて(あんなにも暗い邦画を嫌にならずに観れたことも衝撃だった)「台本ほとんど無いんです」なんて言われて言葉を失った。「いい脚本があってもいい映画が撮れるとは限らないが、いい脚本なしにいい映画はあり得ない」とはよく言われる論だが、そんな脚本神話が自分のなかでふっと崩れてしまった。齢23にしてこんな天地のひっくり返るような体験ができるなんて人生捨てたもんじゃない、留年してよかったね。映画を作るからといってその映画のことをすべて理解している必要はない。見る人だって登場人物のことを完全に理解する必要はないのだ。「ドアの半分開いた映画は観客の人生と地続きになれる」。

〇演出とは

 脚本神話があっけなく崩れてしまっても平気だったのは「じゃあ映画って一体なんなの?」という疑問に対して答えが用意されていたからで、それが演出だ。カット割りがひとつ違えば観客の体験は違うものになる。映像は演劇と違って目をつぶっていたら話が理解できない、というのも印象的だった。映像をみて人は「何が映っているか」を判断する、そしてその意味を理解する。さらに上の階層があって、その領域に立ち上ってくるのが演出であると。参考として見せてもらった映画の話等、細かいことはここには書かないけれど、授業を通してようやく「映像表現ってなんだろう?と思う」スタート地点に立てたような気がする。まあ、身体を動かして撮ってみないとねという結論にはなるのだろうけれど。


 それにしても一つのことを深く考えることの大変さ、という話は前にもここに書いた気がするけれど、自分じゃ到底たどり着けないような、監督の考えに考え抜かれたであろう映画に対する様々な考察を映画学生でもないのにこうして聞くことができたのは大変に幸福な経験だった。大学ってすげー。卒業したくなくなってきた。


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