本棚と抜け殻 後編

以上の記述は僕がだらだらと本の内容を繋げて書いたものだが、実際は日記と化学実験のレポートの間のような文体と形式で書かれている。「彼女」を破滅させる過程でどのような薬をどの程度の量与えたか、「彼女」に診察室や、診察室の外でそれぞれどんな類の言葉をかけたか、つまびらかに、必要量書かれている。実験レポートと同じで、読んだ人に再現ができる(かの)ように書かれているのだ。それでもやはり、本の内容が全て真実だとは考えにくい。あまりに非道徳的、これが事実に基づいて書かれているのなら出版どころの騒ぎでなく、著者は制裁を免れないはずである。

「アリス」
寝室のベッドの中で本を読むアリスのとなりに潜り込む。難解そうな生物学の本を閉じさせて髪を撫でるとあ、と小さく息を漏らした。無言でこちらを見つめる瞳は潤んでいる。
「おいで」
声をかけるとアリスは僕の目を見て微笑んでから、腕を伸ばして抱きしめ首筋に顔をうずめてきた。接吻の前で微笑むアリスを思い浮かべる。クリムト。ムンク。ダリ。接吻、と名付けられた絵画は数ある。しかし私が思い浮かべる絵画のうちどれも、微笑む女性が描かれてはいない。無口な癖にキスは何度でもしたがる。頬が赤く染まる。脚を絡ませてくる。天然自然の媚態。かつてこのアリスが明朗に、例えばあの著作の男と喋っていたなんてことはあり得るのだろうか。そして何らかのきっかけで、例えばあの著作に描かれていたような出来事のせいで、おとなしい、自分から言葉を発することすらしないような人間になるなんてことはあり得るのだろうか。もしそうだとしたら、そうでなかったとしても、なぜアリスはあの本を大切に持っているのだろう。
親愛なるアリス、あるいはアリスだった君。
アリスだった君のなかに、かつてのアリスは存在するのだろうか。
「アリス」
耳元でささやく。僕が話しかけているのは誰なのだろう。いるなら返事をして。くぐもった声でアリスが鳴く。

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