2019/8/1

 愛と憎しみのキャンパスライフにもゴールが見えてきた。5年目にしてようやく大学生活最後の試験を終えて、あとはレポートを提出したら夏休みだ。無期限の。ここにきて『ロングバケーション』を観ていた中学生の頃の記憶に救われるなんてね。いやはや。

 そういえば、大学に入ったあとふとしたきっかけですっかり勉強ができなくなってしまったことがあった。参考書やノートの文字の意味が追えなくなって、意味の追えないそれらの文字を無意味に感じるようになった。勉強、つまり何かを知ったりできるようにするための行動への意欲はそれまで自分のアイデンティティの大きな部分を占めていたのに、簡単に変化してしまって悲しいなーなんて思っていた。同時に本も映画も食事も、色や味を失ってしまって、しかし人前じゃそれっぽいことを言ってみる。これ美味しいねーとか、面白いねーとか。とうぜん板書をとるのも誰かに会ってしゃべるのも億劫になってきて、そんなときは羽田空港かすみだ水族館に行って適当な椅子をみつけて眠った。泣きつかれてやっと眠るような日々だったから、寝不足だったのだと思う。

 映画も観れるし本も読める、ご飯も友人も楽しい。身体と精神が一致している感覚も取り戻した。けれど今でも試験勉強の時期には自分が自分じゃなくなるみたいな息苦しさがよみがえることがある。鬼が来た、と思う。この感じは不眠症が”やってくる”(眠れない夜って予め、ああ今日は苦戦しそうだな、という直感が働く)感じと似ていて、共通点は薬でなんとかなること。結局のところ感情ってやつは単なる化学反応なのである。というかそもそも生命活動って化学反応の結果に過ぎない。不眠体質の鬼のほうは旧知の仲なのだが(保育園の「お昼寝の時間」は暇すぎて地獄のようだった)精神の鬼は新入りだ。新入りとの出会いで何が変わったかというと、文章が書けるようになった。因果なものだ。このnoteをはじめてもう1年経つのね。

 気分がいいと鬼の居ぬ間の洗濯だなと思う。水族館や空港には鬼がいない。夜寝るときは追いつかれないよう鬼ごっこである。空想するのだ。最近はずっと架空の船の内装を思い浮かべて入眠していたのだけど、何度もやりすぎて効き目が薄くなってきた。付き合いきれないよと思うこともあるが、鬼が姿を消したらもう文章も書かない気がする。それはそれで寂しいでしょうね。鬼や悪魔って何故かあらがえない魅力がある。ところで節分って、なんで豆を投げるかご存知?「魔滅」とかけてるんですって。(Wikipediaより。)日本人って駄洒落好きよね。うんうん、やはり鬼は外である。時代は健康。

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