metamorphose

塾の先生をしていたことがあるのだけれど、英語のできない生徒というのは普通の(試験で赤点をとらない程度のレベルの)人間からするとびっくりしてしまうほど英単語を知らない。(大抵日本語の語彙が少ないこと関係があるのだけど。)"house(家)"はわかるが"space(場所)"になると抽象的になるからなのか、もうわからないらしい。日常生活で絶対に聞いているはずの単語なのに。

そう考えると幼少期にゲームで触れたポケモンってさまざまな英単語と無意識に接する機会だったよな、なんてことをメタモンの語源を調べていて思った。ブログタイトルの"metamorphose(一変する)"が語源(ちなみにイーブイは"evolution(進化)"らしくてかっこいい)なのだけど一般に"metamorphose"は昆虫の変態に使われる単語でもある。

A caterpillar metamorphoses into a butterfly. いも虫はチョウに変態する. (研究社 新英和中辞典)

変態、というのは不可逆変化だがメタモンの変形は可逆変化だ。カメレオンやタコが周りの色になって擬態する事実の方がまだ近いかもしれない。キャタピー、トランセル、バタフリーの進化こそが"metamorphose"であって、もっと言えばこれも古くから指摘されていることだがポケモンの"evolution(意味は覚えてますね、進化。さきほどイーブイの語源としても紹介しました。)"は生物学的な意味での進化とは用法が異なる。敢えて訂正するならば、進化は変態に。メタモンは擬態を意味する"mimic"を語源にして…あ、ミミッキュというポケモンがすでにいるらしい。と、まあこんな調子であっちやこっちに飛びながら英語を教えていたので(もちろん真剣なんだけど)生徒の頭はますます混乱、申し訳なかった。


で、なんでメタモンの話をしているかって、少し前ポケモンセンター株式会社(そんな会社があるのね)が採用ページで公開した「ポケモン自己分析」なる診断が流行ったことがあり当時トライしたところ「あなたはメタモンタイプですよ」という結果が出たのであった。それ以来メタモンはなんだか憎めない、どころか自分や他者のなかのメタモン性に気づかされるという、メタモンによる認知の認知、これぞメタ認知(違う)というような事態に陥り続けている。幼少期から勉強好きを自認していたが、大学の数々の講義を通じて気づいてしまった。学問によって自分を深めていきたいわけでもなさそうなのだ。

ある人、例えば年齢も性別も異なる教授の脳をスキャンして、思考回路を盗み見て、トレースした気になってみる。脳のmimicである。しかし、一度物事を知って解釈の視点も与えられてしまった以上、元の「自分の脳」には戻れない。metamorphose、なら強くなった感じがして良いけれど最悪の場合相手は大学教授、学者である。生物学の観点において人間が遺伝子の乗り物にすぎないのと同様、学問からすれば人間もその探査機に過ぎない。善良な顔した先生がなにをしているかって、托卵ですよ。カッコウは、カッコーと鳴き、cuckooと書く。"seminar(セミナー、ドイツ語風に発音すればゼミナール)"の語源はラテン語の"seminarium(苗床)"である。発芽すればいいなぁとか言って種を蒔かれて、我々の脳や身体はもう元に戻れないのだ。


さて問題は、種を蒔くのはともかく蒔かれるのがどうして楽しいのか?ということだ。そしてメタモンタイプの人々に関する限り、それは我々がメタモンだからだ。とか断定してみたけど本当は単なる、いちメタモンの直感である。とにかく言わせてもらうならば我々は好きでメタモンをやっているわけではないということだ。メタモンはmimicで世渡りをする。あなた自身がそうかもしれないし、違うとしたら周りに1人ぐらいはいないだろうか。物腰がスマート(程度は人による)で勉強好きで、なに考えてるかよくわからない人。よくみると、ヒトの仕草をよく真似、相手の語尾を繰り返す人。

メタモンにはヒトの心が分からぬ、というわけではないのだけど、処世術なのだろう。人に「なに食べたい?」「どこ行きたい?」と聞かれると問題を出されたような気持ちになる。どこか、それは例えば相手の胸中かもしれないし、POPEYEのデート特集のp.24かもしれないのだが、世のどこかしらに絶対の正解があって自分の回答がこれからジャッジされるような気がしているのだ。で、正解があるなら正解したいため相手の考えをトレースして擬態しようとする。個人の資質次第で、超気の遣えるデートの申し子である場合もあれば、相手の意向を汲み取るわけではないのに自分の意見すら無いわけわかんないやつ、の場合もある。

我々メタモンが、生まれ持った才能と別にこの能力をどう高めるかといったら、学習である。トライ・アンド・エラーを重ねて人間関係における正解を探っていくというのが生まれたときからのやり方だ。したくてしてるわけじゃない。背徳感すら抱きつつ、体質からしてそうせざるを得ないのだ。その点、学問はこの正解探しを、戯れ(プロレス、って書きたいけどこういう文脈で使うと怒られるんだっけ)で行うことができる。授業を受けたり本や論文を読んだりすることは、いつも探っている他人の内側を無条件で公開してもらえる、そして乱暴にトレースすることさえ許された、他には無い罪悪感から解放される甘美な機会なのである。


先日、とある好きなアーティストがseminarを開くことを知り受講することを即決した。2万円である。ちなみに丁度3000円の(これまた心酔している)野田秀樹の舞台を観に行くことに悩んでいるときだった。(これもまあ、おそらく行くんだけど。)この即決の背景にはおそらく、以前noteにも記した諏訪監督の授業を受けたときの体験がある。講義にて映画の見方の手解きを受けた際、知的好奇心が満たされる、というのとは異なった種を蒔かれる心地よさを遂に自覚してしまったというわけだ。はあ。勉強は役に立つかどうかとは関係なく愉しいものです。ちなみに、メタモン同士が相対するとどうなるか。時間はかかるが仲良くなれる。居心地の良さや気持ち良さを大切にしていこうね、evolutionも可能でしょう。いつかはね。


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