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20代、大博打に出る

こんばんは。haruです。

私事ではありますが、先日誕生日を迎えました。

よくよく振り返ってみると、社会人になってからというもの、自分の誕生日を丸々一日、自分のために時間を費やしたのはおそらく初めてで、なんだかちょっぴり不思議な感覚であります。

それぐらい誕生日って、私のなかでは特別感や重要性はありませんでした。
今年の誕生日をゆっくり過ごして初めて得た感覚です。

しかしついに20代も後半に差し掛かり、
「20代でやっておいた方がいいこと」
「20代のうちに学ぶべきこと」
そんなタイトルの本に何気なく興味を惹かれるようになり少しだけ焦りを感じている自分と、30歳になるまでにこうなっていたいという希望を同じくらい感じるようになりました。
そして今年の誕生日を迎えたときに確信したのは、「20代とはただの大博打だ」ということ。

今日は少しだけ今までの自分の人生を振り返りつつ、今後の抱負について綴りたいと思います。

20歳まで、生きちゃった。

私が20歳を迎えたときに感じた最初のファーストインプレッションは、「生きちゃった」です。

幼少期や思春期に置かれていた私の環境が原因だとは思いますが、詳しくお話すると長くなるのでここでは割愛します。ただ、感覚的に言うと「お先真っ暗」です。

何も見えず、これから何をしたいかも分からない。ていうか、20歳まで生きていると、本当に思っていませんでした。生きたいという感覚も薄かった。

だから「ああ、生きちゃったなあ」という感覚を、気付いたら回っていた0時過ぎの浴槽で感じたのをよく覚えています。

それまでの私は、それくらい「生きる」ということに価値を感じていなかったです。生きながらに死んでいる、という状態とでも言いましょうか。

生に対して人一倍執着心が薄かったなあと思います。ただ、死ぬ勇気が、無かっただけで。

しかし、25歳。急激に私の人生は変化しました。

初めて「生きたい」と思った。

私の昨年を一文字で表すなら「知」です。

丸々1年休息を取った年だったので「休」と表してもいいのですが、それ以上に自分の好きなこと、やってみたいこと、楽しいことを発見出来るチャンスに出会えた期間だったという感覚が強くて、
そう考えると「休」よりは、しっかり自分の内面と向き合って、さらに、新しく今まで交流したことの無い人たちとの交流があって、その関係のなかで得た「知る」という感覚の方が強いのです。

学ぶことをやめた人間は人間ではない、と何処かで聞いたことがあります。

その意味を、感覚を、やっと知った。

私は20代半ばにしてやっといろんなことを「知り」、「もう少し生きてみたい」と思うようになりました。

初めて、生きることに前向きになれた瞬間でした。

今年知ったこと。

今年1年で知ったことは
人は簡単に死ぬ」ということと
知見を広げる重要性」です。

私が最もしんどかった時期は、いつ死んでもおかしくないくらい暗闇のどん底にいました。今では多少マシになりましたが、それでも今でも頭の片隅には「死」が存在します。

「深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いているのだ。」

そんな言葉があります。

しかし、さらに私はこうも思うのです。

深淵を覗いていないだけで、深淵は常にこちらを覗いている。

私にとっての深淵とは、限りなく死に似ている。

先程、今では多少深淵から遠ざかっている感覚があると申し上げましたが、それでもふとした拍子にその闇に簡単に引きずり込まれそうになります。
私は深淵を覗かないようにしているにも関わらず、深淵は常に何処かから私を見つめていて、一瞬でも気を緩めれば奈落の底へ真っ逆さまです。そんな瞬間を今でも感じます。

ですがそれと引き換えに私は、新たな気持ちを手に入れました。
昨年の私は、驚くぐらい色々な場所に足を運んでみたり、行動を起こしたりしてみたのですが、(これは躁状態のときにしか出来ませんが)それにより、自分の好きなことを好きだと言える勇気を手にすることが出来たのです。

それは、ギリギリ糸1本で生と繋がっていた私にとって、希望の光以外の何物でもありませんでした。

基本的に私は臆病な性格で、保守的な部分があります。
しかし、自分の行動一つでこんなにも世界が広がるということに気が付いてからと言うもの、ほんの少しの勇気で先の見えない暗闇から、180度逆方向の感覚を掴むことが出来るということを知りました。

そこで私は思ったのです。
「20代ってもしかして、大博打なのではないか?」と。

生きるか死ぬか。

私はこの「自分の好きなことを好きだと言える勇気」によって、本当に少しですが生きてみてもいいかもしれないと、そう思うことが出来るようになりました。

話はだいぶ極端でありますが、何かするか、そのままの自分でいるのかの選択によっては、自分の心が死んでしまうか、もう少し生きようとするのかパキッと別れる気がするのです。

時間はあるが金はない。
今月はギリギリ生活出来るけど、来月は金が足りなくて家を追い出されるかもしれない。
でもやりたいことはやりたい。

なら、明日生きる金さえありゃいい。
時間が有り余っている今しか出来ない
好きなことに、好きなだけ情熱を注いでみる。
心が死ぬよりよっぽどマシだ。

こんなの、博打と言わずになんと言いましょうか。

私は賭け事に強い方でなければ、運も悪い人間です。だからそういった場面からは極力逃げ続けてきました。

そんなスリルから逃げ続けてきた私が、スリルを前にしてワクワクしています。

生きることって、こんなに楽しいものでしたっけ。


ニーナ・シモンの声は、今の私にとても心地良い。

これまで、言葉には注意して文章を書いてきたけれども
今夜は語弊を恐れずそれを取っ払った私の心情を綴りました。

言い方を変えれば、ただただ私の気持ちを吐露したいという独りよがりであります。

独りよがりの言葉というのは、他者からすれば基本的にはあまり気持ち良いものではないと思いますが、それでもここまでお付き合い頂いた方にお礼を申し上げます。

20代後半。とりあえずは今年の1年。全力で生きてみようではありませんか。

くたばる歓びは、もう少し先延ばしにしてみようと思います。

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