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じゃあ、どう生きればいいんだよ。

今日、こちらの記事を読んで、私は今まで自分が行ってきたことが音を立てて崩れていくような感覚に陥りました。

「善意の自分には、後ろめたいことが何もない」

この言葉が心に刺さって、しばらく抜けそうにありません。

何故なら、私にも「よかれと思って」押し付けた親切が沢山あると確信してしまったからです。

この方、高倉大希さんが仰るように、よかれと思っているのなら何をしてもいいというわけではありません。
これには私も同意ですし、日頃から気をつけているつもりでした。

ですが実際の自らの行動を振り返ってみると、どうでしょう。

例えば私は、「普通」という言葉や、「一般的」という言葉が苦手です。
しかし私は、その「普通」や「一般的」からはみ出している人に接するとつい口を挟みたくなります。いえ、口を挟んだことがあります。

気をつけているつもりなのに、何故そういった行動に出てしまったのか。

それには2つの理由があると思っています。
1つは、私の芯にある価値観が「普通」や「一般的」に大きく影響を受けているから。良くも悪くも日本という国の「一般的」と言われる文化に、多少なりとも触れてきて、この国で言う「一般的」とは一体全体どういうものなのか、すべては分からずとも、一部分だけでも触れてきたと過去に感じたことがあるからです。

日本人には「空気を読む」という文化が存在しますね。
空気を読むという文化は、私の浅はかな知識でしかありませんが、海外にはあまり存在しないという認識を持っています。米国を例にあげると、彼らは自らの意志や気持ちを言葉にすることが当たり前、むしろそうでないと生き残れないという感覚がベースにあるように感じます。
対して日本人は、その場の雰囲気を察知して、「こういう場合はこうするべきだよね」という暗黙のルールが美徳だとされています。

その文化が、私は苦手です。
言葉というのは伝え方によっては凶器になり得ることもあります。しかしそれ以上に、"空気"だけでは読み取れない部分が沢山あります。
好きなこと、好きなもの、嫌なこと。個人によってまったく異なるはずです。
しかしそう思うのは、私は好きなことはとことん追求したいタイプだからでしょうか。大切な人の好きな人、好きなもの、嫌なこと。全部知りたいのです。

2つ目は、シンプルに自分の慢心が原因だと思います。
私は変に、自分に自信を持ちすぎていたのだと、高倉さんの記事を読んで実感し、反省しました。
先程も述べたように、「一般的」と言われる文化に触れてきたことによっていつの間にか私の中でもそれが当たり前になっていたのだと思います。

高倉さんの記事を読んでそれに気付いたとき、私は私の行ってきた行動に自信がまるで持てなくなりました。
しかし決して、高倉さんの記事を批判しているのではありません。
むしろ、この記事に巡り会えた私はとても幸せです。
このまま続けていたらきっと「親切という名のおせっかい」をひたすら続ける人間になっていたでしょう。

noteは、様々な人の意見が交錯する場です。
その上、様々な人がそれぞれの記事に自分の信念を持って公開していると思います。

しかしその上で、「そっとしておく思いやり」を実行するには、あまりにも難しい。「親切という名のおせっかい」で、救われる人もいるのでは?と思うからです。

今日はあまり上手く文章がまとまりません。
何が言いたいのかよく分からず、オチもない文章になってしまいました。

ですが心に刺さった記事でしたので、どうしても紹介させていただきたく記事にした次第です。

もう少し気持ちがまとまったら、改めて文章に残したいと思います。

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