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日本に最も大きな影響を与えた一族を知っていますか?日本の基礎を造ったあの一族の秘密に迫ります。

みなさんは一度は疑問に思ったことがありませんか?
日本に最も影響を与えた外国人のことを。ペリーでもザビエルでも、はたまたチャップリンでもありません。歴史に載っているあの人ですよ。


今回は日本の歴史上、重要な役目を担いながら
教科書ではほとんど触れられていない、ある一族についてお話ししていきます。

時代は弥生時代です。

弥生時代には渡来人が日本へ渡ってきて稲作や織物、醸造、養蚕技術等…たくさんの技術をもたらしたことは日本がこれから発展する上でとても重要な出来事でした。


でも、今の日本の基礎を造ったであろう本当に大切なことが教科書では一文で終わっていますよね。
今回は渡来人の正体を紐解いていきます。

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確かに学校では習ったけど渡来人って一体何者でしょうか?

そして何をしたのでしょうか。


日本の文化
神社へ参拝
おいしい日本酒で一杯のむ
調味料ではかかせないお醤油

明治時代が最もさかんだった生糸を輸出品とする原料となった養蚕

これらを日本に持ち込んだのが渡来人です。

そしてその渡来人の一族は

『秦氏』

京都市の太秦にある広隆寺があります。
広隆寺は日本で最初に国宝となった弥勒菩薩が御本尊であり、
聖徳太子からこの弥勒菩薩を賜った、とある人物が建立したお寺です。

広隆寺を建立したのが秦氏 ここでは秦河勝のことです。

広隆寺がある太秦という地名も秦という字が使われています。
ここは秦氏に与えられた土地なのです。

ただの渡来人にはここまではしないですよね。


秦氏は天皇家に京都の街を整備しただけでなく、養蚕により、機織り、呉服を大量に朝廷に奉納しました。
それに喜んだ天皇が『うずまさる』という意味で与えました。利益に埋もれるという意味は

そこでお礼に太秦の土地を秦氏へ与えました。太秦の語源の一つとなっています。

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そんな秦氏のルーツはどこからきているのでしょうか。

秦河勝をはじめ、秦一族は日本に大きな影響を与えながらも教科書では触れられることは少ないですよね。
そんな彼らのルーツは、古代エジプトまで遡ります。


エジプト文明崩壊後、残された一族はイスラエルに移り、ダビデが王となりました。
首都エルサレムを建設し、子どものソロモン王と共にイスラエルを繁栄させてきました。
ダビデの子どもソロモン王は奥さんにファラオの娘を選びました。それにより、王としての地位をより強固にしました。

また、イスラエルに移り、首都であるエルサレムを整えたダビデは旧約聖書に理想的な国王として書かれています。

日本にもその名残は残っていますよね

例えば、平安京という日本語ですがヘブライ語ではエルサレムと言いますよね。その話はさておき。歴史は変わり、イスラエルも栄華を極めましたが、のちに衰退の道を辿りました。 

ダビデの血筋をもつ末裔たちはシルクロードを旅し中国にたどり着き、そこで中国を統一しました。時代は秦漢時期だと言われています。

そこで、秦の始皇帝(先祖はダビデ)が生まれました。

そののち、日本にエジプトで別れた支族のトップがいることを知った秦一族は中国を捨て日本へと渡りました。一人や二人ではありませんよ。

何千、何万という人数で日本へ渡ってきました。

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その歴史を裏付けるように京都市太秦にある大酒神社は秦の始皇帝を祀っています。
大酒神社の元々の神社名の漢字はまた別にあり、その漢字は中国語ではダビデを意味するものとなっています。

そこに一緒に祀られているのが弓月君です。

 日本へ来たのが応神天皇の時代ですね。八幡神社は応神天皇を祀っていて、しかも全国的にも神社の数が多い理由は秦氏が関係しているのでしょうね。

秦氏も一代で日本を盛り上げた訳ではありません。1000年近くも何代という時間をかけています。

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ここからは、秦氏の時系列でお話していきましょうか

秦酒公(はたのさけきみ)時代
農耕、土木や酒造り、神社造りなどの技術に長けていました。
太秦には木嶋神社という神社があります。この神社には蚕ノ社という社があり、養蚕技術を日本にもたらした秦氏ゆかりの神社となっています。

さらに木嶋神社には下鴨神社の糺の森、みたらし池の元となったと言われる元糺の森、元糺の池があります。さらには全国的にも珍しい三柱鳥居も見ることができます。

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続いては、秦河勝です。 酒公の6代目の孫 広隆寺建立 603年
聖徳太子のブレーン的存在としても有名です。
最初に少しお話した広隆寺を建立しました。
広隆寺の日本第一国宝「弥勒菩薩像」の横に秦河勝夫妻の像があります。

広隆寺には秦氏がイスラエルとのつながりをしめすものが残されています。

それは十戒です。
十戒とはイスラエルの民を率いたモーセが神から授かったイスラエルの民が守る十の掟のことです。

一方で広隆寺にある十戒(広隆寺では十善戒といいます)はこちらです。


ころすな
盗むな
邪淫するな
噓つくな
お世辞いうな
悪口いうな
二枚舌使うな
欲張るな
怒るな
不正な考えをするな

仏教の考え方とも捉えられますが、モーセの十戒とも捉える事ができますよね。

さらに、広隆寺の駐車場を出て、右手に砂利道があります。そこを進むと、「いさら井」という井戸が存在します。イスラエルを彷彿とさせますよね。


さらに、秦河勝は舞楽の猿楽、能を伝えたともいわれています。

秦河勝さんのお墓の場所は諸説あります。兵庫県太子町の隣の赤穂市、生島に、大阪府寝屋川市、そして太秦にある蛇塚古墳も秦河勝氏のお墓だと言われています。

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今の日本の文化だと複数お墓があるので考えられにくいですが、案外全部本当かもしれませんよね。

骨を色々なところに埋葬する方法もあったかもしれませんね。
権力を保持するために案外ありえない話ではないかもしれないと思います。


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秦忌寸都理(はたいみきとり)
秦伊呂具(はたいろぐ)
嵐山を開拓、整備しました。もともとは人が住める場所ではなかった土地を秦氏が持っている治水技術を使いました。

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松尾大社の酒造りの神として秦忌寸都理がいますね
また、秦伊呂具は稲荷神社を造りました。もともとの祠は木嶋神社にあり、それを今の伏見へもっていったと言われています。

そんな秦氏の子孫は色んな血筋と混じり合い、存在していることでしょう。
賀茂氏、藤原氏、三井家、九州の島津氏、宗氏、惟宗氏などが有名どころでしょうね。


秦氏は名前を変え、今の日本に根付き、今も国を動かしているかもしれませんね。
学校の教科書では1行くらいしか触れられませんが、渡来人が日本にもたらした影響は計り知れません。

神社を色んな視点から見ると新たな日本の姿が見えてくることでしょう


最後までお付き合いいただきありがとうございました。

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