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人生の師匠との、架空での戦いと平和

私の興味関心が向く先は大体古くて奥行きがあるものである。例えば茶道。そして華道。さらに書道。(もっと言えば仏教…うんぬんカンヌン…)

気が向けばなんでも学ぼうとする私は、社会人になり自分で好きなことに投資できるとわかったその日から、そういう「人生の師」になると直感が働けば、すぐさまその人に連絡を取り会いにいくということを繰り返しています。

今まで先生の年齢は、30代〜70代と自分の年齢以上の方がそれぞれといった感じでした。ですが去年、さらに年上の80代の華道の先生に会いに行って「これだ!」と思い教えを乞うことになりました。

ところがどっこい、想像以上のカルチャーギャップにびっくりしたのです。私の親が72歳なので、80代の方と接する機会はほぼなかった。(さらに祖母は遠くにいて、小さな頃から「ザ・ご高齢の方」に会う頻度は少なかったので耐性がない)

ある日花材の価格上げに伴い、追加で費用を欲しいと先生が言ったので、小さなパスケースに4つ折りにした千円を手渡したところ、「お札は折らないの!」と言われました。以前茶道教室で「お札はピン札を用意するのが礼儀ですよ」と言われたのをかすかに覚えていたので、とっさに「しまった…」という気持ちと「でも突然用意もなくお金くださいって言われたから仕方ないよなあ」という気持ちが同居していました。

よく話を聞いてみると、「ピン札を用意する礼儀がなっていない」という意図ではなく、「お札を伸ばして財布に入れておかないと、あなたのお金の運気が逃げるから」という私のことを心配してくださっておっしゃったそうなのです。わかる、わかるしありがたいけど、デジタル化が進む今なるべくなら現金を持ち歩きたくない私は財布を簡素化していたのです。その意図をどう伝えようか考え、否、伝える難しさを悟った結果、「そうですか、ご配慮ありがとうございます」と笑顔で感謝を述べてその場をなんとなくおさめました。

ですがびっくり、その次の回にまた教室に行くと、「お財布はこういうものに入れるのよ」とわざわざお財布まで用意して、10分ほど怒りの入り混じった表情でくどくどと説明されたのです。これには私も心が折れ、顔が歪んでしまいました。自分の意図があって財布を簡素化しているのが、先生にそれを理解してもらうのも大変だからと丸くおさめたつもりが全く伝わっていない…。先生のそれはまるで、私のことを無視して自分の言い分を正当化するためのものではないか…と沸々と怒りさえ湧いてきてしまったのです。ですがここは学ぶ者の身ですから、言い返すのも芸も品もないとなんとか笑顔を取り繕い、その時間を過ごすことにしました。

家に帰ってから、いやもう帰る途中から沸々と湧き出るこのいや〜〜な感情。一体これはなんでしょうか…。

ひとつ思ったことは、「私は私の思いをきちんと届けなかった」ということです。学びを受ける身であるからと自分の意見を留めて相手を上に立たせてしまったのは私ではないかと思いました。できることなら今からやり直したいけど、そうもいかない。う〜ん、と悩んだ結果、架空の先生を目の前に座らせることにしてやり直すことに(笑)

「先生、私にだって私の言い分があるんですよ。今はデジタルの時代だし、お財布はみんな小さくなっていってるんですよ。お金が大事という気持ちはわかるけど、物質信仰をしたってお金はやってこないと思います。ある意味お金が大事という気持ちさえあったら、それでいいって時代が来てると思うんです。」

すると先生は、「う〜ん、そういうこともあるかもしれないわね…。でも私はあなたのことを思って…」と少し悲しそうな顔(もちろん空想です)。

「そっか、それならOKです。いつもありがとうございます」と私。
 

不思議とこのやりとりをして次回顔を出したお教室では、先生が私のことをたくさん褒めてくれる回となりました。(一人暮らしで自立して暮らしていることや、好きなことを探して頑張っていること)

学ぶ時には師を立てるということが美学として美しいものではありますが、また偉大な師匠とは弟子から学びそういう弟子を引き寄せるともいいます。先生、これからもお互い研磨し合える関係で、どうぞよろしくお願いいたします。

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