この旅を最後に猫やめる



近況

二月の頭から神奈川に住む先輩の部屋に居候させてもらって、約一ヶ月が経ちました。先輩の部屋には沢山の漫画と本と画集と写真と資料と…先輩の絵やメモ、コーヒーとたばことオーディオ機器、LPにCD、そして植物があって、ヘビのぬいぐるみもいます。朝にはちょうどいい明るさの光が差し、夜は暖灯でも視覚は賑やかで素敵なお部屋です。先輩の恋人も同居されていて、よく夕ご飯を作ってくれます。焼き鮭は最高だった…辛いことがあった日もいつも通りそばにいてくれます。
二月を振り返ると、最初の一週間こそ毎朝起きていましたが、この二週間は本当に色々なことがあった………寝床として貸してくれた青い二人用のソファにもぐりこみ、将来のことや、絵について考えています。
体が動かなかった昨日、先輩は
「寝坊しちゃったねェ、今日は休みなァ」と言ってくれて、表情が流れていかないように、たまにコーヒーを入れながら昼を過ごし夜をこえ、私は今朝までもぐりこんでいました。
夜勤から帰ってきた先輩が今隣の部屋で眠っています。
...すぅ...すぅ...すぅ...すぅ...すぅ...すぅ...すぅ...すぅ...すぅ...すぅ...ふすぅ...すぅ...すぅ...すぅ...
時計は大体am8時。時間だけが動いて情けない。
最近は選択肢が多すぎるのか、何か巨大なものが選択を圧迫しているのか、その両方なのか、これからやるべき事と自分の気持ちを整合できず、次の一歩を見失っています。

先週、ひとつ重要な考え事があって私は地元の親友と二人で青森に飛びました。どうしても答えが必要で、2日間他の責任を一切置きざりにしました。夕方の新幹線に駆け込み、新青森で親友と一夜を過ごし、次の日には奈良美智の「ここから」という展覧会を見てすぐに新幹線に飛び乗り帰ってきました。物凄い速さの旅でした。
親友が奈良美智を「観察の鬼」だと言うので、観察について少し考えた…
観察とはとにかく見ること、眼を見張って常に神経を澄ますことだと捉えていましたが、内在する問題にパンクしていたこの2日、観察とはそれらが世界にどんな関わり方をして、世界が内在に何をもたらすのかという譲歩の様子を見つめ続けるという冷静さ、その場に対する態度だと思ったのです。
内省の最中に奈良美智の絵に対峙したことで変化した思考。
人が何かを観察するというのは、その一瞬に巡り合わせ、あらゆる事が衝突し形を変えた、その輪郭をいかにそのまま受け取ることができるかという意識の在り方だと考えてみるのです。

この半年、大学に籍を置きながら環境を転々と変え、生き様を探し続け、正直に生きていました。失敗に巻き込まれてひしゃげた成功と、毎秒のつまづき。その連続。焦燥。
この旅を最後に一度生き方を見直したいと、青森の片隅のホテルで私は親友に話していました。彼は私に諦めることを教えてくれた。同時に起こっている様々なことの、何を優先する?と。
考えてすぐに分かることは一晩のうちに親友があっという間に片付けてくれたので、考えても仕方のないこと、つまり長く生と共にしなければ分からないことだけが手元に残りました。
それらを手元に持ったまま生きていくことが私の理想とする諦め方で、生に軸をもって対処していこうという、ある種希望の現れでもありました。
青いソファの中、青森で食べた味噌ラーメンや、雪と共存する凛とした町並みとその物語、ホテルの笑い声、絵を前にした親友の横顔と眼差し、新青森駅で締めに頼んだ梅酒とホタテ餃子、帰りの新幹線の切なさと光、遅すぎた答え。
それらがようやく質を帯び、輪郭を辿りはじめたのは、ひたすら手元の問題に刺激を与え続けた結果だと思うからです。

🌜 ☮️ 🌛


あらゆることが混沌としたままで円を描いてしまう。
2024年に絵を作っていくことは、触って確かめられないところに釘を打ち続けることです。無理にでも終止符を打ち続けた過去が軌道を開く…とめどない散文に釘を打ったから読めるこの文章と同じように。そして、そういう釘の塊が時に、溢れすぎた現実の肩を叩くのだと思います。
観察は作られた態度であって、意識や操作のうえにふとあるものですが、逆に言えば、自然発生的でコントロールのきかない出会いや衝突を含めた私たちの生活や心象が、操作の外にまではみ出していくから存在している態度ともいえます。
どうしても蓋をできない考えや欲求と、ただ一点を見極め終止符を打っていく、捨てた機会を踏み進む力は、両極に見えてしかし、観察がふたつを繋げています。

2024.2.27
神奈川にて


2024.4.19
見たい方向へ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?