「23㎏で余命宣告を受けた私がカウンセラーになるまで」


こんにちは。
改めまして。
摂食障害克服専門カウンセラーの柳まきこです。

今日は私、柳まきこが
今の生活を手に入れるまでのお話をしたいと思います。

私は北海道の田舎で大きな農場を営んでいる両親の元に生まれ
何不自由ない生活をしていた、一般的な女の子でした。

元気で、食べる事が大好き
夢や希望でいっぱいの毎日を送っていた私に
起こった一番初めの試練は

イジメ

でした。

田舎の小学校に通学する事になった私は
全校生徒50人前後の生徒
全員から毎日、当たり前の様にイジメられました。

当時は今ほど
イジメ
について問題視される風潮がなく

学校に行かない
という選択肢もなく

何より毎日、早朝から夜まで忙しく働く
両親に、自分の辛さを話す事が出来なかったんです。

当時、学校で流行っていたのが
私にバスケットボールをぶつけるゲーム。

顔に当たったら一番高い点数

私はいつも教室の隅に身を寄せていました。
1クラスしかない、教室でもイジメは続き

給食に異物を入れられる。
顔にツバを飛ばされるゲーム

が、6年間続き
私は「お腹が痛い」という症状を抱える様になりましたが
地元の内科にいっても特に異常は見つからず・・・
イジメられているという事も親には話せませんでした。


中学校はそのまま町内のに行きましたが
小学校時代との変化は

イジメが激化した

という事だけ。

小学校まで3㎞
中学校まで5㎞
の道のりを徒歩・自転車で自分からイジメを受けに行っていた
という記憶しかありません。

朝登校すると自分の机がない。
造花が飾られている(お葬式ごっこ)
給食に異物を入れられる
ツバを吐かれる
物を盗まれる・隠される
使用済みのナプキンや避妊具が机に置いてある

こんな毎日を変えたくて
高校は、汽車通で通う
隣の市にある高校を受験しました。

イジメは無くなったのですが
「お腹が痛い」という恐怖からは逃れられず、

お腹が痛くなるのが怖くて
食べられなくなっていき

気付いた時には
低栄養状態。

高校生になって
初めて精神科を受診しましたが
特に症状の改善はなく

そのままあっという間に
162センチ23㎏に・・・。

両親は、何とかしようと
駆け巡り

たくさんの病院へ連れて行ってくれ
たくさんの治要をうけました。

時には
お祈り
除霊
よく効くお守り
高価な栄養食品

など、たくさんの事で
私の命を救おうとしてくれたんです。

そんな両親の想いにも関わらず
私はあっという間に

瀕死の状態

になり、自分でトイレにいく事もできなくなり
余命宣告を受ける事になりました。

一時帰宅の度に何度も救急搬送され
両親は「覚悟してください」を何度言われたのか
私にもわかりません。

そんな中でも
意外にも私は生きていました。

今思うとなぜ生きていたのか不思議な位です。


転機になったのは
17~18歳位の時。

ある日、突然に湧き上がってくる
「食べたい」
という欲求。

そこから私の人生は更に激変します。
自宅の冷蔵庫にある物を手当たり次第
食べつくし、食べても食べても満腹感がなく

とにかく食べていました。

体が栄養を求めていたんだ。
と今なら解るのですが

当時の私にはそれが解らず
増えていく体重と胃の不快感に耐えきれず
吐く事
を覚えてしまいます。

そこからが、新たな地獄の始まりであった事なんて
考える事が全くできませんでした。

食べても太らない
魔法を手に入れた様な気持ちで

食べて
食べて
食べて
吐きました。

そんな私に、家族も困惑し
家をいう場所に居場所をなくした感覚に陥った私は
ある日、突然の家出。


そこから、数年間
親族との連絡を絶ちます。

後から聞いたのですが
家族は泣いて泣いて
もう、あの子が戻ってくる時は
死んだ時だ・・・

と覚悟を決めたそうです。

世間知らずで何の用意もしていなかった
無計画の家出をした私には

当たり前ですが想定外の色んな試練がありました。
「いつ消えてもいい」
「消える理由探し」
の様な生活の始まりでもありました。

私が自分から消える事をしなかった理由はただ1つ

「家にとって恥ずかしい存在・恥になる事をこれ以上してはいけない」

だた、それだけです。

今思えばとても不純な動機ですが
私が選んだのは
介護福祉士という仕事。

過労で倒れて
「仕方なかったね」
って言われて消えるために

専門学校に入学したんです。
過食嘔吐をしながら
バイトをして入った学校生活は
想像以上に辛く

栄養失調で倒れて留年。
2年制の学校を3年でやっと卒業して
介護福祉士として働く事にやっとたどり着いたのが
20代半ば。

小学校からイジメられ続けられ
入退院でほとんどの時間を過ごした私には
友達という存在や、人との関わり方も解らず

3年間の学生生活では一人も友達ができませんでした。



その後病棟や施設など仕事を転々としながら
腰のヘルニアになったり
疲労骨折をしたり・・・

それでも働いていたのは
自分が消えても
「仕方なかったね」
「仕事頑張ったからだね」
と、家族が周りから言って貰えるため

そして、過食嘔吐の食費を手に入れるため。
それだけです。

そんな中、人生最大の転機を迎えます。

想定外の「妊娠」です。

私は成長期に充分な栄養を摂れなかった事が原因で
「99.9%妊娠できない」と医師に言われていたんです。

にも関わらず、元気な女子を授かりました。

結婚し、子供を授かった事で
疎遠になっていた家族との連絡も増えました。

なにより
「これからの人生、全てをこの子のために・・・」
そう思う様になった私。

それでも
症状は止まりません。

自分の存在価値を見い出せず
私がいつ消えても、この子が生きていける様に・・・
と、その思いだけで鬼の様な教育をしました。

そんな事を思いつつも
子供を育てるために
なんとか、安定した収入を手に入れなければ・・・
という想いも強くなり

2人目出産後・30代で看護学校に入学。

今思えば、言ってる事もやってる事も支離死滅。
どれだけ子供に負担をかけたかわかりません。

看護学校でもイジメにあった私は
途中で休学届けを出しながらも何とか卒業。

看護師として働き始めました。
安定した収入は得られるようになり
少しずつ症状は減っていったのもこの時期です。

そんな中、最後の試練が起きました。

「突発性難聴」

左耳の聴力をほぼ失い休職。
その後、服飾するも、全く仕事が出来なくて退職したんです。

自宅で途方に暮れている私に子供が言ってくれました。

「お母さんは耳が聞こえなくて可愛そうだけど、家に居てくれて嬉しい」
と・・・。

この瞬間が私にとっての
「回復」
になりました。

消える事ではなく
この子達と自分が幸せに暮らしていくために
今、出来る事を探し、
模索し初め

自宅でできる事。
今の自分でも出来る事を探し
オンラインでの相談業務を始めたんです。

そんな中、父から一通のメールが届きました。
「経験者として、摂食障害で苦しんでいる人を救ってあげられなか?」

このメールを貰った私は
次の日からカウンセラーを目指し始めます。

それまでの私は
自分という存在が家にとっての恥。
隠さなきゃならない存在。

としか思っていませんでした。

でも、そうじゃなかったんだ・・・。
涙が溢れ、

今自分がしたい事
をしよう。そして過去の経験を黒歴史ではない!
と考える様になったんです。

モラハラで苦しんだ自分ともサヨナラをしまいた。


43歳になった今
たくさんのクライエントさんの人生に関わらせて頂ける様になり
子供と笑顔でご飯を食べている今が

私にとって毎日が青春。

大切な人と
美味しいご飯を食べられ
使命感と生きがいを感じられる仕事を続けられている今が

人生で最高に幸せな瞬間の連続でしかありません。

摂食障害は治る病気です。
治す病気です。

どんなに今、先が見えないどん底に感じられていても
そのドン底を経験しているからこそ

この先はキラキラした未来でしかないんです。

諦めない事。
それが一番の回復の秘訣であり大きな大きなポイントです。
諦めない限り、回復のチャンスはあります!

ながくなりましたが、最後までお読み頂きありがとうございました✨

柳 まきこ


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