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ゴルフの歴史【Ep7】ゴルフスイングの変化

このシリーズではゴルフ史を紹介しています。
ただの趣味翻訳ですがお楽しみいただけたら嬉しいです。

画像の出典は画像下に、
参考資料は最下部にまとめています。

前回までのお話はこちらのマガジンからどうぞ
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ハリー・バードン

ハリー・バードン(Harry Verdon)

1900年に全米オープンがシカゴゴルフクラブで開催されました。とある1人の選手は、打球が左右に散ることを少しも恐れなかったと言います。

それは、ハリー・バードン(Harry Verdon)でした。イギリス、ジャージー島出身の穏やかでスタイリッシュなゴルファー……。誰も彼のようなプレースタイルのゴルファーを未だかつて見たことがありませんでした。

ハリー・バードンは、ボールをフェードさせたり、ドローさせたり、低空のノックダウンから見上げるほど高い弾道のショットまで、まさに自由自在に球を操ることができました。さらに彼は、誰よりも真っ直ぐストレートなショットを打つことができたと言います。

逸話では、バードンは同じ日に同じコースで、36ホールプレーすることができなかったと言われています。なぜなら、2ラウンド目では午前中に自分が掘ったディボットからショットを打たなければならなかったためなんだとか。彼のショットの精度を表す皮肉なジョークですね。


偉大な3人組

The Great Triumvirate

恐ろしいほどのショットの精度を誇るハリー・バードンと真っ向から勝負ができたゴルファーは、英国のJ.H.テイラーとスコットランドのジェームズ・ブレイドのたった2人だけでした。

1894年〜1914年までに開催された、21回の全英オープンのうち、彼ら3人が合わせて「16回優勝」し、他の選手が優勝した5回でも、この3人のうちの誰かが必ず優勝争いを繰り広げ2位にいました。

この圧倒的な強さから彼らは「偉大な3人組(The Great Triumvirate)」として知られるようになります。しかし、間違いなくその中でも、バードンこそが最高で最強のプレーヤーであると言われていて、1900年までに3回の全英オープンを制し、全盛期を迎えた彼は、さらに3回の勝利を手にしました。


Youtubeに御三方のスイングがあったので、ぜひご覧ください。



真新しいゴルフスイング

ハリー・バードンが残した数多くの功績の中でも、ゴルフスイングの変革への貢献について触れない訳にはいきません。

19世紀末、体重移動を最小限に抑え、クラブをフラットに体の周りを水平に回す「セントアンドリューススイング」を支持する人々と、新しいボールであるガタパーチャボールに適した「次世代スイング」を支持する人々の間で激しい論争がありました。

この新しいスイングは、英国の人気スポーツである、クリケットの熱狂的支持者が採用したオープンスタンス(アライメントがターゲットのやや左を向く)から発展したと考えられています。

クリケットファンのゴルファーは、オープンスタンスだけでなく、大きな手首の動きを利用し、「ボールを右に置き体の回りをフラットに振るセントアンドリューススイング」とは対照的に、アップライトなバックスイングでスイングを行ったといいます。その結果、ボールは高く空に舞い上がりました。

トム・モリス親子やウィリー・パークの低弾道を支持する伝統主義者(セントアンドリュース派)にとって、この高く浮かぶ高弾道ショットは不敬で腹立たしいものでした。

しかしこの気難しい伝統主義者たちは、呆気なくすぐに手のひらを返すことになります。1890年、イギリス人のジョン・ボール・Jrがアップライトスイングで全英アマチュア選手権と全英オープンを制覇したためです。

さらに4年後の1894年、ジョン・H・テイラーは、オープンスタンスでクリケットの動きを取り入れたスイングで見事に全英オープンの初優勝を果たしました。

さらにさらに追い討ちをかけるようにやってきたのがバードンの時代です。彼の成功により、従来のセントアンドリューススイングの人気はすっかり陰ってしまい、世代交代を余儀なくされたのでした。


バードンのスイング理論

バードンは、アップライトスイングを使用しただけでなく、それについて書籍も執筆しています。

彼は、世界初のゴルフ指導書の著者ではありませんが、彼のメソッドを細部にわたり解説たことにより、ベストセラーを出版した最初期の作家の1人になりました。

以下は、1905年に初版が出版された「ザ・コンプリート・ゴルファー」からの一節です。

(以下、意訳)

「スローバック」は、古くて賢いゴルフの格言の1つである。ハーフウェイバックでクラブヘッドは加速し始め、トップに向かい徐々に加速していくべきである。しかし、切返しでクラブヘッドのコントロールが失われるほど、加速させるべきではない。

スイング始動の最初の6インチ(15cm)では、クラブヘッドはボールから真っ直ぐ後ろへ引くのが良い。その後、急激にフラットに体に巻き付けるように振り上げるのは避けたい。

ハーフウェイバックまで比較的真っ直ぐをキープしてクラブを引く。従来のセントアンドリューススタイルの打ち方は、急激にフラットに巻き付ける動きが大部分を占めてたが、現代のスイング方法の方が、より易しくより良い結果を生むだろう。

(以下、原文)

'Slow back' is a golfing maxim that is both old and wise. The club should begin to gain speed when the upward swing is about half made, and the increase should be gradual until the top is reached, but it should never be so fast that control of the club is to any extent lost at the turning-point. The head of the club should be taken back fairly straight from the ball... for the first six inches, and after that any tendency to sweep it round sharply to the back should be avoided. Keep it very close to the straight line until it is half-way up. The old St. Andrews style of driving largely consisted in this sudden sweep round, but the modern method appears to be easier and productive of better results.

The Complete Golferより

これは、バードンがドライビングテクニックについて言及した、ほんの一部に過ぎません。この書籍には、他にも以下のような章が盛り込まれていました。ブラッシー・スプーン・クリーク・ミッドアイアン・マーシー・バンカープレー・パッティング・競技プレー・キャディ・女性のためのゴルフ・お気に入りのコース・そして自伝です。

それでも、1921年までにこの「The Complete Golfer」は、17回も刷られたのでした。

バードンを筆頭に、テイラー、ブレイド、そして、その他の素晴らしいイギリスのゴルファー達が彼らに続いたことにより、新しいアップライトスイングは一世を風靡しました。

(この書籍が気になる方はAmazonのKindleなら¥269で購入できます)



H・J・ウィッガム

アメリカでアップライトスイングが広まったのは、H・J・ウィッガム(H.J. Whigham)の影響が大きかったと言えるでしょう。

ウィッガムは、スコットランド出身の小説家兼アマチュアゴルファーでした。彼はオックスフォードで教育を受けた後、シカゴに移住し、1902年から連続して米国アマチュア選手権を勝ち取り、C.B.マクドナルドの娘と結婚しました。

そして、1897年に、初心者から中級者向けのゴルフのテクニックや戦略について説明した書籍『How to Play Golf』を出版し、これはアメリカ初のゴルフ指導書となりました。

バードンが初めて全英オープンで優勝した1年後に出版されたことからも、ウィッガムがバードンのスイングに強く影響を受けたことが伺えます。

書籍では「ゴルフを将来的にプレーし、ゴルファーとしての未来を大切にするなら、決してセントアンドリューススイングを取り入れないでください。... 間違った方法でボールを打つくらいなら、正しい方法でボールを打ち損ねる方がマシだ」と記しました。

ウィッガムは、セントアンドリュースのスイングスタイルは、初心者や中級者が習得するには非常に難しく、将来的にスイングの改善が難しいばかりか、ゴルフの成績に悪影響を与える可能性があると考えていました。



バードンフライヤー

バードンフライヤー
(The New Mcintyregolfでレプリカを購入でるようです)

バードンは、革新的なアップライトスイングブームを引き起こしただけでなく、商業ゴルフにも深い影響を与えたと言われています。

彼が1900年にアメリカを訪れたのは、まだ始まって間もないUSオープンに出場するためだけではありませんでした。ゴルフメーカーのA.G.スポルディングが新しく発売する「バードンフライヤー(Vardon Flyer)」というガッティーボール(ブランブルボール)を宣伝する9ヶ月間の宣伝ツアーのためでもありました。

この時代の全英オープンの賞金が30ポンド(現在の216,000円)であったのに対し、スポルディングはバードンに900ポンド(現在の6,480,000円)を支払う契約を結びました。

ゴルフに夢中になったばかりの国、アメリカは、バードンの訪問に魅了されました。彼が向かう先々には、何百人もの人々が彼を一目見ようと集まりました。冷酷で鉄のように堅い街と言われるニューヨーク市でさえ、バードンマニア(バードン狂)が起こり、彼が訪れた日には株式市場が閉鎖されたほどの人気ぶりだったと言います。


バードンの強さ

バードンは、この全米ツアーで、70以上もの試合に出場しました。そのうち、わずか12試合ほどを除いて全てで優勝し、驚くべき記録を打ち立てました。

当時、彼は列車で長距離移動し、見たことのないコースでプレーし、地元の名手を相手に戦っていたことを考えると、彼の強さは信じられないほどです。

1900年ごろの列車(パブリック・ドメイン)

この年(1900年)の6月に、全英オープンがセントアンドリュースで開催されました。優勝はテイラー、2位にバードン、3位はブレイドと続きました。その後、バードンはアメリカに戻り、シカゴで開催された全米オープンに出場し、テイラーに2打差をつけて見事勝利を収めました。

ヴァードンの素晴らしいプレーは、多くの人々の心を掴み、ゴルフの信奉者に変えたと言います。アメリカでは大ブームが起こり、1900年末までにゴルフコースの数は1000コースを超え、ゴルフ人口は25万人を超えました。これはアメリカを除いた全世界のゴルフ人口よりも多い数だったといいます。


…続く


参考資料

The Open
Wikipedia - Harry Vardon
THE AGE OF VARDON
・THE STROY OF GOLF by GEORGE PEPER
・The Complete Golfer by Harry Vardon

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