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あなたと、ともだちになりたい

ちまちまと小説を書いている。

社会人とやらをやりながら小説を書くのって、根性のいることだなあと思う。満員の通勤電車に揺られている10分間とか、お昼休み、コンビニ弁当を食べ終わった後の15分間とか、そういう細切れな時間を見つけてやっていくしかない。家に帰ったら疲れてしまってあまり集中力が持たないし、ご飯を作って食べたりお風呂に入ったり、家のことをしなければならない。(したがって、残業なんてしている場合ではないのである。座右の銘は定時退社!明日でもできることを今日やらない!!)(もちろん仕事でも日々ベストをつくしているつもりです、念のため)

物語を書く、ということ自体は幼稚園のころからやっていたのだけれど、書き手と読み手の関係性についてはあまり真剣に考えたことがなかったなと思う。

それと関係あるのかないのかわからないような話をするけれど、広告やプロモーションって、たまに暴力的だなあと思うのです。webのターゲティング広告なんかは特に。たとえばtwitterで「死にたい」とつぶやいたら「あなたはひとりじゃないよ。相談してください」的な自殺相談センターのツイートがTLに出てきたりする。あんなの見たら余計に死にたくなりませんか。(私はなります)

そうした広告のなにが不愉快か、なにが暴力的かというと、自分という人間が、名もなき消費者のひとりとしてしか認識されていないという事実を、何の遠慮もなく突きつけられるからだと思う。私という人間は、ただの「死にたい」という(顧客となりそうなキーワードとしての)言葉を発しているだけの、顔も名前を見えない人間に過ぎない。

ビジネスというやつに疲れたんだ。自分の感情なんてどうでもいいとか、他人の私的感情なんてどうでもいいとか、そういう態度で割り切って仕事をするのが「社会人」だ、みたいな「世間の常識」に、実は結構疲れている。
だってそんなの、どう考えたって無理があるよ。わたしもあなたも生身の人間で、割り切れない感情やら感覚やら、言葉や論理や合理性で説明できないものたちで構成されていて、それらをなかったことにしながら1日8時間以上も「社会人」としての芝居を続けるの、どう考えたって無理がある。
でも多くのひとたちはそうやって生きていて、そこに順応しているふりをして、平気なふりしつつもそれが実は辛いから、自分と同じような順応のしかたをしない人を「甘え」「そんなんじゃ社会に出たらやっていけない」とか言って批判してみたりするんだろうか。「社会に出たら」ってなんだよ。人間はみな、生まれた瞬間から社会に出ているというのに。

話が逸れました。
恥ずかしいことを言うようだけど、私は、「人を救えるのは芸術しかない」ということを信じている。(「人」は「ひと」と表記してもいいのだけれど、かっこつけた言い方になるのが恥ずかしいのでここでは漢字表記にします)
なぜかというと、他の誰とも代わりがきかない、独りの人間の魂が、同じように掛け替えのない孤独な人間の魂に出会うことができる、そのもっとも強力な(ときに時代も距離も言語も飛び越えることのできる)手段が芸術だと直観しているからだ。

多くの現代人は「社会人」として孤独に生きるしかなくて、それは見下されることでも否定されることでもない。「社会人」が生み出す価値によって私たち自身は生かされているのだし、社会人って本当に偉い。でもそれだけだとたまにしんどくなったりもするよね。

もう少し、話を戻します。
物語の作者と読者の関係について。
究極の理想は、「読者」と一括りにするのではなくて、ひとりひとりを固有名詞で呼ぶような感覚を持つことだと(私は)思う。
作品を通じて、一人ひとりの人間と出会うこと。孤独を突き詰めることで、孤独な人間同士が出会うこと。孤独な部分同士。

大森靖子が歌う、「らぶALLできないから 無限に あいらぶゆーを重ねて成りますGOD」ってやつです。(「ドグマ・マグマ」より)

つまり、どうすればたくさんの人に読んでもらえるか?じゃないんだよ。いや、それでもいいけれど、核にあるのは、「あなたの魂と出会いたい」ということ、「ほかのだれでもない、あなたと、ともだちになりたいです」という、瓶入りのラブレターを海に流すような感覚であるべきだとおもう。

そんなことをしながら、「社会人」ではなく「ひとりの人間」として、社会の中で生きていきたいなあ、とおもいます。


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