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フクモリ13年目。オープンの背景と馬喰町

2021年5月8日の本日で、フクモリ馬喰町は13年目を迎えました。

ひとつの大きな生き物である街は年々、姿を変えていきます。街が変われば、それに呼応するように訪れる人の性質も変わっていくものです。

この約10年間のフクモリの歩みと、馬喰町の変化の歴史。これからのフクモリのあり方について。

カフェで街を元気にする

「ここはさ、1階と2階がセットじゃないと貸せないんだよ。それに、1階は人が集まる場所にして欲しいんだよな。例えばカフェとかさ。」

東神田の、馬喰町駅から徒歩で2分程清洲橋通りを岩本町側に歩いた場所。人に溢れているわけではなく、むしろその逆。どこか時代に取り残された感のある、寂しい空気が流れる街の、これまた寂れた通りに面した角地のビル。そこでオーナーの鳥山さんと交わされた最初の会話がこれでした。

独立して、自分のクリエイティブエージェンシーを設立しようと、東京R不動産を通じて紹介してもらった「泰岳ビル」。30坪ほどのほぼ真四角の間取りは、天井が高く、かつてはインテリア資材の倉庫だった空間だと説明されました。2階とは室内にある大きな螺旋階段で繋がれている。シャッターを開け放たれてガランとした空間が久しぶりに外からの光を浴びて、気持ちの良い空気が流れていました。

建築基準法制定前に建てられた、東京の復興と成長を見つめ、そして東京の新たな進化の再生の流れで取り残されようとしているこのビルは、衣料品の問屋街としてかつての東京経済の顔でもあった街にありました。けれど当時は、時代の変化に翻弄され、再開発の手も入らない東京の中の「残され島」。

その街の斜陽を見るに忍びなくなった街の古参でオーナーの鳥山さんは、街に再び活力を与えようと、数年前から奔走していたのです。アーティストやクリエイター達を積極的に街に誘致し、近隣のビルオーナー達に掛け合い、現状回復なしの自由なリノベーションを条件として整えて、古い街の古いビルの一室一室にオリジナリティをスパイスし、内側から街を変えていくという一人デベロッパーを地で行くような人でした。

そして、街に集まってきたアーティストやクリエイターが集うサロンのような場所として、自分のビルの1階にはカフェを作りたいという想いをその場所で聞いたのが2009年が明けてすぐ。

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オフィスとしては2階のスペースだけで十分だったけれど、鳥山さんとの軽い立ち話の間に、頭の中では1階のカフェに人々が集い、賑やかさを取り戻していく街の様子がシネマのワンシーンのようにどんどん編集されていきました。

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東京の成長とともに、取り残された街。
その街をカフェで元気にする。

「元気になった街を見ながらビールを飲みたいんだよ。」
そう語る鳥山さんの屈託のない笑顔。

フクモリの全てはそこから始まりました。

2009年5月8日、フクモリを街にお披露目

2009年は2年に一度の神田明神祭にあたる年。5月8日は、ちょうどその前夜祭。鳳輦の行列が長い列をなして街を歩く日だと鳥山さんから説明されて、できればその日にオープンしてくれないかと相談を受けました。

街にカフェができる。そのカフェを街にアピールする。それには鳳輦に参加している街の重鎮たちに直接見せるに限る。

「この日にオープンしてくれるなら、俺が鳳輦の行列をフクモリの前に通してやるから、皆に知ってもらおう。」さすが、街に影響力のある方の言葉は重くて強いし、間に合いませんよ、と跳ね返すのも難しい。このありがたい申し出を受けることに決めました。けれど、本当に間に合うのか。

この時点で、すでに4月の上旬。わりにルーズにやっていたオープンの準備を、そこから急ピッチで仕上げの段取りを進め、なんとかカタチにできたのは、オープンギリギリ。

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5月8日のその日は、晴れ渡った青い空が日本橋のビル群の隙間から覗いていたことを覚えています。祝い花に囲まれた、オープンしたてのフクモリのテラス席に座っていると、神々しく鈴が鳴る音と共に、鳳輦の行列がやってくる。大勢の人が神主や巫女の装束に身を包み、馬をひき、神が宿る前の神輿を引き回す。

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その行列に参加している方々がほぼ全員、ある種、この古い東神田の街に不似合いな小綺麗な装いのフクモリに顔を向けてくれます。

「今日からオープンしました、カフェ、フクモリです!よろしくお願いします!」スタッフ全員で声をかけます。

鳳輦に参加している人々は口々に、
「おう、今度行くよ!」
「定食あるんだって?聞いてるよ、後で顔だすよ。」
声を返してくれます。

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ほどなくして鳳輦の祭事が終わったころ、先程の人々が神官の衣装から普段着に着替えて、大勢やってきてくれました。まさにフクモリという神輿に、神様が宿ったのかもしれません。

馬喰町という街と共に10年以上

アーティストやクリエイターが集う街として鳥山さんが力を尽くした10数年前の東神田・馬喰町周辺には、まだフクモリといくつかのお店があっただけでした。

フォイルギャラリーやドイツ雑貨のマルクトさん、チェコの雑貨を扱うチェドックさん、タロウナスギャラリーやハンドメイドジュエリーのnoya opさん、飲食店では、ともすけさんが賑わっていた時代。

2009年5月にフクモリができて、周辺のワーカーや、住まうアーティスト、そして街に育った古参の人々が多く利用してくれるようになりました。街のダイナーとして営業をスタートした後から様々なイベントも発信もするようになり、それらを多くの人や、メディアに取り上げてもらうことで、遠方から足を運んでくれるお客様も増え、東神田はひとつのカルチャースポットとして、人々の散策エリアとして成長。

フクモリ自身も、翌年に姉妹店のRistrante Renea、さらにその2年後の2012年にはブックカフェのイズマイ、2015年には今ではキッチンカーとして営業しているサラダカフェ3Rを東神田にオープン。

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その間、馬喰町には、益子の名店・スターネットさんがやってきたり、北出食堂さんがオープンしたり、ランボーイズランガールズさんがやってきたり。そしてアートギャラリーが40軒近く軒を連ねるなど、その多様性とそれぞれの個性の立ち並び方には、さながらロンドンのイースト地区やベルリンのミッテのような空気と似たものがあったと思います。

東神田に限らず、浅草橋や、蔵前、御徒町など、東東京全体に東京の新しい空気と価値が浸透していきました。かつて、フクモリでも定期的に朗読会や、トークショーを行ってくれていたBEAMSの青野賢一さんは、ご自身のインタビューの中でこう語っていました。「東東京をしてフクモリ前とフクモリ後での街の価値創造における明らかな変化がある。」と。この発言が今もなお印象深く刻まれています。

街に訪れた二度の変化。これからのフクモリ

ほどなくして東日本大震災があり、馬喰町に一度目の変化が訪れる。いくつかのお店が移転したり、クローズしたり。

その後、鳥山さんが逝去され、同時期ぐらいから周辺のシボリックな古いビルのいくつかが解体されてマンションに建て直されるようになり、居住民の方々が増えました。まるで鳥山さんが亡くなるのを待っていたかのように、街は急激に変化していき、2015年ぐらいから徐々に街の空気が変わっていく。整っていったという表現がフィットするかもしれません。居住民の方々がダイナーとして使用する頻度が増え、それに合わせて日常の使い勝手をメインに据え直し、改めて食を中心としたカフェダイニングの位置付けを強くしていきました。

そして、コロナ禍により大きく変化した2020年。

フクモリとしての大きな変化といえば、マーチエキュート万世橋内で営業していたフクモリ万世橋店のクローズがあります。コロナ禍で万世橋のフクモリをクローズすることになった時、本当にたくさんのお客様から閉店を惜しむ声と感謝の言葉をかけて頂きました。そのときには自身の力不足を痛感し、本当に申し訳ない思いで打ちのめされそうにもなりました。

万世橋店の閉店は、何よりも大切なのはフクモリに集まってきた人なんだと改めて実感する機会でもありました。

お客様はもちろんのこと、一緒にフクモリを作り上げてくれたスタッフ、イベントに参加してくれたアーティストの方々、近隣の人々、皆一様にフクモリを好きでいてくれました。

関わる人々のフクモリを好きという気持ちが、フクモリを作ってくれている。

フクモリは、時代と人、そして東神田と言う場所に寄り添うことで、鳥山さんが描いた最初のイメージに近づいていくと考えています。

最初から今も、そしてその先までも。変わらないフクモリでありたい。来店してくださる方々の日常の中に溶け込む、誰かにとっての心安らぐ場所として。いつ、どんな時、誰と来たって良い場所。ひとりでもふたりでもたくさんでも。

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