第二部 さあちゃんとの最後の1週間

ここでは、2023年3月26日~3月30日までを書いていく。
当然第一部から読んでもらいたいが、ここから読む人のために基本情報を以下に書く。

さあちゃん→私の母(61) くも膜下出血が再発し、2023年3月24日入院。同病気を8年前にも発症。
私→大学2年生(21) 父と犬との二人と一匹暮らし。

26日の午前6時半ぐらい、私は父にたたき起こされた。
病院から「良くない」と連絡がきたとのことだった。
私は寝起き数十秒で服を着、行こうとしたら父に「早めに伝えてもらうように言っているから、顔ぐらい洗いなさい」と言われた。水洗顔とトイレだけすまし、バッグをひっつかんで車に飛び乗った。

病院に着くと、確かこの時から母は自発呼吸をしていなかった。
とりあえず生きていたが、血圧が下がっていたように思う(おそらく60~80?)。

お医者さんから説明があり、髄液が抜けないとどうしようもないとのことだった。この状態でもって数時間かもしれないし、数日もつ人もいるとのことだった。確かこの日はさあちゃんのお母さん(つまり私のおばあちゃん)、さあちゃんのお姉さん二人(叔母)、さあちゃんの弟(叔父)も呼んだ気がする。そして危ない状態のため、夜間にそうなった時のために近くにホテルをとるよう言われた。

かなしいもので、この辺の記憶は曖昧になってきている。
まだ体が思い出すのに耐えないのかもしれない。

閑話休題。
当日にとれるホテルなんて全然なく途方に暮れていた時、さあちゃんの2番目のお姉さん(以下、Y姉ちゃんとする)が近所に持っているマンションに泊めてもらえることになった。Y姉ちゃんの娘、つまり私の従姉(以下、Nちゃんとする)が住んでいるが、部屋が余っているため使ってとのことだった。

しばらく病院内で待機した後、一旦家に帰って犬のトイレと餌をなんとかし、泊まる支度をして家を後にした。

Y姉ちゃんのマンションは、県庁所在地に建っているタワマンで、大きくてとても綺麗だった。
コンビニで父と買ったご飯を食べ、昨晩結局3時就寝6時半起きだったため、8時に寝落ちして21時に布団に入り、12時に起き、3時に起き、眠れず5時半に寝落ちし、次の日は8時頃に起こされた。

余談だが、この1週間で感謝しているYoutubeチャンネルについて少し言及したい。
灘中・灘高の卒業生4人が運営している、雷獣というYoutubeチャンネルである。

私は雷獣のメンバーであるベテランちさんが個人チャンネルを初めて数か月のところで(登録者が3桁のところで)(バターロールパンのちょい後で)チャンネル登録をした古参で(自慢)、雷獣は始動した時からずっと欠かさず動画を視聴している。

そして寝るときに雷獣のサブチャンネルでやっているラジオを聴いて最近は寝ていた。


何を言いたいのかというと、眠ったらさあちゃんが死にかかっていると病院から連絡がくるのではないかという恐怖で眠れない中、雷獣のラジオを聴いていたら眠れたということだ(内容、ちゃんとおもろいです)。
眠れない時にもお世話になったし、他に見ていた楽しい動画が全然見れなくなった時期があっても、お通夜の晩も、雷獣の動画は笑えた。
本当に、本当に感謝している(本人の目に留まればいいなあ)(交流のある人がいたら感謝の意を伝えてください)。

さて話を戻すと。
27日、病院から朝に連絡があった。
朝の連絡は毎日面会の案内とその日の状態の報告である。
「変わりないですよ」と言われたものの、この時最高血圧が45ぐらいになっていた。本当に泣いた。確かこの時から、一日二回の面会を医師に許された。そして確か、この日から髄液が抜けなくなっていた。

朝から夕方の面会までずっと病院の待合(受付の前。通常の患者さんが利用するところだが、特別に居させてもらった)で待っていた。夕方には少しよくなったか変わってないかぐらいだった。病院が閉まるギリギリの18:00までいさせてもらい、マンションに帰り、Y姉ちゃんが作ってくれたご飯を食べた。

病院の待合で待っていると、色々な患者さんを目にする。
さあちゃんよりも20、30歳違うような患者さんが、自分の足で歩いている。
車いすの人もいるが、ちゃんと付き人と喋っている。
口に出すのは初めてだが、なんで、と思わずにはいられなかった。

次の日から、少しずつ血圧が安定しだす。
低くても血圧が急に下がることがなければ、少なくともその日は安心なのだ。血圧が安定して、ふとした時に髄液が抜けたらと祈る日々が始まる。

28日、さあちゃんを心配した私の彼氏が居ても立っても居られず、鹿児島に一泊二日した(もしもの事態に備えるという意味もあったと思う)。彼氏はさあちゃんの生前に一回会っているし、会う以前にも電話でちょこちょこ話をしていた。彼氏も私の母を大切に思っている、と思う。わざわざ来てくれるぐらいだし。

そして29日に彼氏が帰る時、父が簡単な手紙と交通費を包んで彼氏にもっていくようにと言った。こんな時に紹介するつもりではなかったが、来てもらった以上ここが言うタイミングかと思ったし、さあちゃんが元気な時に一回会っているというのを伝えたかった。

29日は家で寝ることができた。
じいちゃんのお墓を父と掃除して、「連れて行かないでください」と祈った。溜まった家事をして、気を紛らわせるために履修を考える等していた。
少しずつ、楽しい動画を見て気を紛らわせることができるようになっていた。

親族の危篤状態というのは、不謹慎だが状態を見守る家族にとっても大変なことである。いつ病院から電話が来るか分からない、今後の予定が立たない、もしもの話をしたいけれど、それはそれでそうなるのを待っているみたいだし信じたくないし等の葛藤(だから元気な時に段取りを決めて準備をしていた方がいい)…それに加え一番つらいのは、この状況をつらいと言葉にするのがはばかられるということだろう。ギリ存命の状態というのは、当然つらいが有り難い、喜ぶべき(というとまた違うが)ものなのだ。

この状態がいつまで続くのだろうと気になって、色々調べていた。さあちゃんのようなケースを見つけることはできなかったが、危篤状態で半年持った人の事例を見つけた。希望と同時に、その人を待っている人の大変さにも思いを馳せた。

HCUにはさあちゃんと同じように危篤状態の患者さんがいて、患者さんの様子こそ見えないものの、天井付近にあるモニターで患者さんの血圧や心拍数を見ることができる。「この人は血圧45か…」とやるせなくなった。また、空のベッドが露出しているのを見てもかなしくなった。

30日から血圧が上がったり下がったりするようになる。
この日、久々に血圧100台を見ることができ、久々に安眠できた。
話しかけたり手を握ったりすると血圧が上がるのだ。
たまに150なんてとんでもない数値をたたき出すこともあり、父に「上がりすぎるのも心配だ」といったところ、「上がる分にはいいのよ、俺は血圧が150切ったことはないぞ」と返された(父も病気をやっているので心配)。


しかしお医者さんから、薬を調整したと告げられる。看護師さんからも、血圧の薬を交換するときにがくっと下がると言われた。
まあ逆に言えば、早朝に呼び出された日は血圧の薬が効かなかったから、少しはマシだというようなことを言われた。

私は今までよりも大きな希望をもって、さあちゃんを応援していた。
血圧が上がるまで、「がんばれ」というのも正直辛かった。
しかし、血圧があがったことで、さあちゃんも生きたいと思っているのかもしれない。それに危篤状態でも持つ人は持つので、たとえ寝たきりになろうとも、生きてさえいればいいという思いでさあちゃんを応援するようになっていた。


さて、私は4月1日まで実家にいる予定だった。
しかしどう考えてもあと少し、春休みの期間をさあちゃんと過ごしたかった。

そこでもう1週間いようと決意した日だった。

第三部、さあちゃんを見送った日
に続く。






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