ジャック・ラカン『精神病のいかなる可能な治療にも先立つ問い(D'une question préliminaire a tout traitement possible de la psychose )』(エクリ所収)―私訳―(4/n)

以下はÉcritsに収められている論文『精神病のいかなる可能な治療にも先立つ問い(D'une question préliminaire a tout traitement possible de la psychose )』の第4部に対応するIV. Du côté de Schreber.の前半の翻訳です。後半部は訳稿は完成しているので近日中にnoteにて公開します。
訳者はフランス語初学者であり、誤訳等々が多く散見されると思われるがコメントやTwitter(@F1ydayChinat0wn)上で指摘・修正していただければありがたいです。

原文は1966年にSeuil社から出版されたÉcritsのp.541~p.547に基づきます。したがって、1970年と1971年に刊行されたÉcrits IとÉcrits IIについては参照していないため、注などが不完全であるかもしれません。
また翻訳に際して以下の三つの翻訳を参照しました

  1. B.Finkの英訳

  2. ドイツ語訳(旧訳)1986年にQuadriga社から出版されたSchriften II

  3. 日本語訳(佐々木訳)

1の英訳についてはwebサイト(users.clas.ufl.edu/burt/deconstructionandnewmediatheory/Lacanecrits.pdf)で閲覧可能です。

2のドイツ語訳に関しては ‎ Turia + Kant 社?から出版されている新訳のSchriften IとSchriften IIがありますが、入手できなかったため旧訳を参照しました。

基本的な文構造はFinkの英訳に従い、適宜独訳を参考にしました。結果として佐々木訳とはやや異なる箇所が多いです。

また参考文献として以下を参照しました。

またシュレーバー回想録の引用は上記の日本語訳に従っています。(一部エクリのフランス語訳との兼ね合いで変更した箇所はあります。)
二つ目のシュレーバー回想録の英訳版は以下のページで閲覧できます。ただしネットで閲覧できるものは1988年の改版(?)と思われるのでラカンが本論文を執筆した時のバージョンではありません。
Memoirs of my nervous illness : Schreber, Daniel Paul, 1842-1911 : Free Download, Borrow, and Streaming : Internet Archive

注意事項

・ある程度読みやすさを重視しているので必ずしも原文の文構造に忠実ではないし、また一部の語は訳し落としたり、意訳したり、補ったりしてあります。
・(?)がついているのは訳が本当に怪しいと私が思っている箇所を指します。
・訳者が勝手に補った箇所・または短めの訳者コメントは[]をつけています。関係代名詞を切って訳した部分などは[]を明示していない場合があります
・訳が微妙な場合は元の語を(…)で示していますが、ラカン本人が記した(…)もそのまま(…)としています。混同は多分しないと思いますが一応注意してください。加えて、本来外国語は斜体にするのがマナーですがnoteだと斜体にする方法がわからないので直接書きます
・原注、訳注、長い訳者コメントは最後にまとめておきました。訳注は主に引用されている文献の被引用部を中心にした抜粋が多いです。
・原注の番号は降りなおしてあります
・段落の改行は原著に従います

以下、本文


1 今や我々はシュレーバーにおける妄想の主観性(subjectivité)の内へと入ることができる。
 ファルスのシニフィカシオンは、我々が述べたように、主体の想像界において、父性隠喩によって喚起されねばならない。
 このことはシニフィアンのエコノミーにおいて、はっきりした意味を持っている。ここでこそ、このシニフィアンのエコノミーの定式化に我々はまさに立ち返ることができるのである。[シニフィアンのエコノミーの定式化は]今年度の我々の無意識の形成物についてのセミネールに出席している人々にとってはおなじみである。要するに、隠喩の公式あるいはシニフィアンの置き換えの公式とは[以下である。]


 ここで、大文字のSはシニフィアンである。xは未知の意味作用、sは隠喩によって導かれたシニフィエである。隠喩は、SからS’へのシニフィアンの鎖における置き換えの中にその本質がある。S’のエリジヨン―[S’のエリジヨンは]ここで、S’の削除[=約分のこと]によって表現されているのだが―は隠喩の成功のための条件である。
 こうして、このこと[=隠喩の公式]は父の名(Nom-du-Père)の隠喩に適用される。[父の名の隠喩とは]即ち、母(mère)の不在の操作によって最初に象徴化される場所に、この名(Nom)に置き換えるのである。


 今や、主観性(=主体性, subjective)の位置に関する状態を理解することを試みよう。この主観性(=主体性, subjective)の位置において、父の名の呼び声に対し応答するものは現実的父の不在ではない。というのも、この[現実的父の]不在はシニフィアンの現前と極めて両立可能でありながら、シニフィアンの欠如それ自体であるからだ。
 上に述べたこと[=父の不在に対して主観性の位置において応答するもの]は、ここで、我々に用意されていた概念である。大他者の内でのシニフィアンの現前は、実際、主体に対して通常は閉ざされた現前である。というのも、概して、[主体に対して閉ざされている、]シニフィアンの現前は、まさに抑圧された(独:verdrängt, 仏:refoulé )状態で持続するのである。まさにこの抑圧された状態からこそ、シニフィアンの現前は自身の反復自動運動によってシニフィエの内で執拗に自身を再現前化[se représenter]させようとするのである(Wiederholungszwang=反復強迫)。
 フロイトのテクストから、そこ[=フロイトのテクスト]において十分に分節化されている語を引き出そう。というのも、もしこの語がフロイトのテクストにおいて抑圧されたもの( refoulé)とは別の、無意識の機能を指し示していなかったなら、フロイトのテクストを正当化できないようにするためである。私の精神病についてのセミネール[S3]の核心であったことを示そう(?)。それはつまり、フロイトの思想が精神病の現象を評価する時に、この語はフロイトの思想において最も必然的な論理的帰結に関係しているということだ。その語とは排除(Verwerfung)である。
 この排除という語はこの領域(registre)[=フロイトのテクスト?]においてこの肯定[or位置づけ](Bejahung)の不在、あるいは割り当て判断(jugement d'attribution)の不在として分節化される。フロイトは否定(Verneinung)のあらゆる可能な適用にとって不可欠であり、先立つものとして肯定を提示した。また、フロイトは否定を肯定に実在(existence)の判断として対立させる。しかしながら、そこにおいてフロイトが分析的経験の要素としてこの否定を切り離すような事柄全体は、否定においてシニフィアンの自白を示している。このシニフィアンはまさにその否定が取り消しているシニフィアンである。
 それゆえ、原初的である肯定が担うものはシニフィアンなのである。そして他のテクストたちがこのことを認めることを可能にしている。とりわけフリースとの文通の手紙52[訳注1]では、シニフィアンが標識(仏:signe,独: Zeichen)という名の下で、初めの認識による語としてはっきりと分離されている。
 排除(Verwerfung)はそれゆえ我々によってシニフィアンの排除(forclusion)とみなされるだろう。父の名(Nom-du-Père)が呼び出される地点において、どのようにして大他者の内で純粋かつ単純な孔(trou)が応答するのかを我々は理解するだろう。この孔(trou)は暗喩の効果の欠如(carence)によりファリックなシニフィカシオンの代わりに対応する孔(trou)を[大他者の内に?]生じさせるのである。
 上述の形態の下でのみ我々は、シュレーバーが損傷(dommage)(訳注2)の結果として我々に示したこの損傷を理解することができる。(訳注3)シュレーバーはこの損傷を部分的にしか明らかにできない状態にいるのである(訳注)。彼が言うところには、フレヒジヒとシュレーバーの名とともに«魂の殺害»(独:Seelenmord, 仏meurtre d'âmes, S.22)(訳注4)という語は重要な役割を果たしている。
 1.これが[引用された回想録の]テキスト[である。]「まず私は、当該の展開の原因に関して、その第一の端緒が十八世紀にまで遡ることに留意しなければならないし、また、一方ではフレヒジヒとシュレーバーの名(多分、当該の家族の個人個人の限定なしに)が、他方で魂の殺害という概念が主たる役割を演じているということに留意しなければならない。」(邦訳p.25, S22)
 ここで問題となっているのは無秩序であるということは明白である。この無秩序は主体の生の感覚(sentiment)の結合において引き起こされたものである。シュレーバーが予告した、彼がこの無秩序のプロセスについて試みた解説についての補遺よりも前にあるテクストを、検閲は破損させる(mutiler)[ということも明白である。][このことにより我々は、]シュレーバーはここで、生きている人々の名前をある事実に結び付けたと考えさせられる。その事実とは、時代の慣習が出版を完全に許容しなかったという事実である。同様に、続く章[=第三章のこと]は全て削除されている。そしてフロイトは、彼の鋭い炯眼のためにファウストに於ける、魔弾の射手(Freischütz)に於ける、あるいはバイロンのマンフレッドに於ける幻想だけで我慢せねばならなかったのである。(フロイトがアリマン(Ahriman)の名―つまり、シュレーバーの妄想に於ける―を借りたと想定している)この妄想的な作品はフロイトにとって、その[=シュレーバーによる]言及において全ての重要性をその主題から得ているように思われた。[その主題とは]英雄が、[異性の]兄弟・姉妹間の( fraternel)近親相姦によってもたらされた呪い(malédiction)により死んでしまう[というものである。][訳注5]
 我々としては、フロイトともに我々はテキストを信頼することを選んだので、―これらの破損(mutilation)を除いて、[これらの破損は]確かに残念ではあるが、このテキストはその信憑性の保証が最も高度なものに匹敵する書類のままである[ので、]―我々が構造を明らかにするために専心するのは、妄想の最も発達した、本と混ざり合った形態においてである。この構造は精神病の進行過程[procès]そのものと類似していることが明らかになるだろう。

2 フロイトが、認識された無意識の主観的暗示的意味(connotation subjective)を理解した際のいささかの驚きとともに、この過程において我々は次のことを確認する。即ち妄想は自身のタペストリー全体を、パロールのものである創造する力(pouvoir)の周りに広げるということである。神的な光線たちがこのパロールの基体(hypostase)である。
 以上のことは第一章の中心的主題として始まる。[この第一章では]著者はまず始めに無から実在(existence)を生じせしめる行為が、[この行為が]思考にとって不快であるということによって捉えるものにこだわる。[思考にとって不快である]というのも、物質において現実は自身の実体を見出すのであるが、この物質の変化において、経験が思考にもたらす明白な事実に[無から実在を生じせしめる行為は]逆らうからである。[訳注6]
 人類にとってより馴染みがある考えと対照させることによって、シュレーバーはこのパラドックスを強調する。もし必要ならば、シュレーバーは彼が人類であるということを我々に保証する。ヴィルヘルムの時代の教養ある(gebildet)ドイツ人はヘッケル風のメタ科学主義を抱いていた。その証拠として、シュレーバーは[読んだ]本のリストを提示する[訳注7]。[このことは]我々にとって、シュレーバーのリストを頼りにして、ガヴァルニがどこかで人間の蛮勇な思想と呼んだものを、復元する機会である(原注1)。
 シュレーバーにとって、その時まで考えられなかったような思考の闖入によって反省されたこのパラドックスにおいてこそ、シュレーバー自身の精神状態(mental)から生じなかった何かが起こらねばならなかったのだという証明をシュレーバーは理解するのである。この証明に対して抵抗する資格を我々に在らしめているのは、精神科医の位置においてはっきりと明らかにされている基本的な請求だけである。

3 それはさておき、我々はシュレーバーが彼の回想録の15章(S.204-215, 邦訳 p.166-177)において立証した一連の現象に専念しよう。
 思考強迫(独:Denkzwang, 仏: le jeu forcé de la pensée)のうちで、―神のパロール(この論文のI章5段落を参照[基本の言葉(Grundsprache)のことだと思われる])はシュレーバーに思考強迫を強制する―15章で立証された一連の現象の一部を支えるものは劇的な賭け金を持っているということがここで知られている。その賭け金とは神が―我々はさらに後に神の誤認の力を確認する―主体を消滅したしたものと見なしており、また主体を故障したままにする、あるいは置き去りにする(独:liegen lassen, 捨て置く)ということである(訳注8)。我々は、この[神=光線?がシュレーバーを捨て置く]脅威(訳注9)について再考する。
 返答しようとする努力において、主体はそれゆえ謂わば主体としての彼の存在において宙釣りにされている(suspendu)。この返答しようとする努力は何も考えない瞬間(独:Nichtsdenken、仏:Penser-à-rien)(訳注10)において、失敗する。この何も考えない瞬間は、確かに大変な人間味をもって休息を(シュレーバーが述べているように(訳注11))要求し得るものであるように思われる。以下がシュレーバーに起こったことである。

1.シュレーバーが咆哮の奇蹟(独:Brüllenwunder, 仏: le miracle de hurlement )と呼ぶもの。[それは、]シュレーバーの胸に由来するうなり声である。咆哮の奇蹟は予想を何の予告もなくシュレーバーを不意に襲う。[この咆哮の奇蹟は]シュレーバーがひとりでいる時も、言葉を絶した空虚に向かって突然大きく口を開け、そして彼がその直前までくわえていた葉巻を落としたシュレーバーの姿によってぞっとさせらた目撃者がいた時も[起こるのである。]

2.「全体のまとまりから離れ去ってしまった神の神経」(訳注12)から発される助けを呼ぶ声、そしてこの声の悲しげな調子は、神が撤退する際のとても長い距離によって生じるのである。(訳注13)([上述の]二つの現象においては、主体の引き裂きと主体のシニフィアン的様態(mode signifiant)と十分に区別できないので、この二つの現象については、我々は詳説しない。)

3.認識の領野のオカルト的地帯において、[例えば]廊下や隣の部屋において、並外れたことであることなしに、主体の意図に基づいて作られたものとして主体に自身を押し付ける現出の間近にせまった開花

4.次なる段階における、遠くより―この遠くとは即ち感覚が捉えるものの外部、公園(le parc)の中、現実界の中である―来たる奇蹟による創造の出現。つまり、新しい創造物である。マカルピン夫人はこれらの創造物は飛んでいる種族に常に属することを鋭敏に気づいたのである。[この飛んでいる種族とは即ち、]鳥たち、あるいは虫たちである。
[※奇蹟によって創造された鳥たち、奇蹟によって創造された虫のことを指している。]

これら後者の妄想による大気現象は航跡の後、あるいは外縁の効果として現れるわけではないのだろうか?この妄想による大気現象は二つの時を示す。この二つの時において、主体の内で沈黙したシニフィアンは、自身の闇より、まず始めにシニフィカシオンのひらめきを現実界の表面にほとばしらせる。そして、この妄想による大気現象は自身の空虚な台座の下から投射されたまばゆさによって、現実界を照らしだす。

したがって、幻覚的諸効果の先端において、これらの被造物たち(créatures)は―もし人が現実性の内に於ける現象の発生に関する判断の基準を極めて厳格に適用しようとするのなら―幻覚という名目にのみ値する。これらの被造物たちは我々にこれら被造物たちの象徴的関連において、<創造者>(Créateur)、<被造物>(Créature)、<創られたモノ>(Créé)のトリオを再考することを勧める。このトリオはここで引き出されるのである。

4.我々は実際、<創造者>(Créateur)の位置から、<創られたモノ>(Créé)の位置へと遡るのである。この<創られたモノ>が主観的には<創造者>の位置を創り出すのである。
 その<多様性>(Multiplicité)における<唯一さ>(Unique)、その<統一>における<多様さ>(これらはシュレーバーが定義したヘラクイトスに通ずるものがある特性である。)、[それらは<神>(Dieu)であり]、この<神>は実際には王国のヒエラルキーの内で力を奪われ(démultiplié)てしまい、―このヒエラルキーはそれだけで研究に値するであろう―脱付加された(désannexées)諸々の同一性をかっぱらう存在へと堕落している。
 [<神>は]これらの諸存在に内在しているのだが、シュレーバーの存在の内への諸存在の包摂を通じた、諸存在の捕獲はシュレーバーの完全さを脅かす。<神>は超空間からの直観的な支持なしには、存在しない。この超空間において、シュレーバーはまさにシニフィアンの伝達が糸(独:Fäden,仏:fils)に沿って誘導されるのを見るのである。この糸は放物線の軌跡を具現化し、この糸にしたがってシニフィアンの伝達がシュレーバーの頭脳へ後頭部から入るのである。(S.315,本稿V Post Scriptum[=追記を参照のこと。])
 然しながら時間の経過と共に、神はその顕現下において、知性を欠いた諸存在の領野がさらに広く拡大していくままにする。この知性を欠いた諸存在は自身が何を言っているのかを知らず、こうした奇蹟[によって創られた]鳥たち、発話(parlants)する鳥たち、天上界の前殿(独:Vorhöfe des Himmels, 仏:vestibules du ciel, Fink:S.19(邦訳p.22))といった空虚な存在である。こうした空虚な存在において、フロイトのミソジニーは一目で、フロイトの時代において白いガチョウは理論上、若い娘たちであることを察知した。このことをフロイトは、主体[=シュレーバー]が後に[鳥たちに付ける]固有の[少女の]名(原注2)によって裏付ける(訳注14)。それは諸々の語における類似性と全く同音異義的(homophoniques)な同等性―この同音意義性にガチョウたちは頼っているのである(訳注15) (Santiago = Carthago, Chinesenthum = Jesum Christum, etc., S. 210-XV[邦訳 p.173)―がこのガチョウたち[=シュレーバーが若い娘たちの名前を付けた奇蹟によって創られた鳥たち]によって惹き起こされるという驚きによって、これらガチョウたちは我々にとってはそのうえさらに象徴的なのであるとだけ述べておく。
 これと同様に、<神>の存在はその本質において、常により遠方へ、その存在を条件づける空間へと撤退するのである。<神>のパロールから成長し、どもりながら発音される綴りの韻律分析(scansion)へと至る緩徐化(ralentissement)においてこの撤退は直観されるのである(訳注:S.223,邦訳p.184参照)。ここでもし、このプロセスを示すものをたどれば、我々は唯一の大他者を把握するだろう。この大他者と主体の実存は連関するのであり、もしシュレーバーがそのうえ、この<神>(Dieu)が他のあらゆる交流[訳注16]の側面から排除されているということを我々に知らせるように気を配らなかったのであれば、[この唯一の大他者は]とりわけ、パロールのざわめきを展開するような諸々の場所を空けることに適している[であろう](S.196の原注[訳注17])。シュレーバーは弁明をしながらこの気配りを行うのである[訳注18]。しかしどんな後悔をシュレーバーが抱いたとしても、やはりシュレーバーは以下のことを認めねばならないのである。[即ち、]<神>は経験を受け付けない[訳注19]。<神>は生きた人間を理解することができない[訳注20]。<神>はまさにシュレーバーをまさに外部から捕えるのである。(実際、この外部は確かに神の本質的な様態であるように思われる。)内部は全て<神>に対して閉ざされているのである。«記録方式»(仏:système de notes, 独:Aufschreibesystem)[訳注21]においては、行動や思考が保存されされる。[この«記録方式»は]もちろん、キリスト教の信仰教育を受けた(catéchisées)我々の子供時代における守護天使によって掴まれた手帳を分かりにくい方法で想起させる。しかしなによりも、腎臓や心臓のいかなる調査の痕跡も不在であることに留意しよう(S.20,I, 邦訳p.23)[訳注22]。

そのうえ、同様に魂の浄化 (Laüterung) [訳注S.12~13, 邦訳p.17~19]が、魂たちにおいて、それら魂たちの人格的同一性の全ての持続は破棄された後、全てはこの駄弁の永遠の糧へと縮減されるのである。この糧を通じてのみ、神は人間の創意工夫を構成している諸著作それ自体を認識せねばならぬのである(S. 3oo-P. S. II,邦訳p.247)。[訳注23]
 ここでどうして我々は『昆虫の新種(Novae species insectorum)』の著者の孫甥(Johann-Christian-Daniel von Schreber)がいかなる奇蹟によって創られた被造物たち(créature)も新しい生物種ではないということを強調したことを指摘せずにおかれようか?
加えて、[この奇蹟によって創られた被造物たちを父の懐から聖母[or処女?、原語はVierge]へ向かってロゴスの豊かなメッセージを伝達する[純真・平和・聖霊の象徴としての]白鳩であるとしたマカルピン夫人とは反対に、この鳩たちは奇術師が彼のチョッキや袖の開口部からひしめかせる[pulluler]鳩の方を我々に彷彿させるではないか?
 これによって、我々は最終的にこれらの謎に苦しめられている主体が、彼は<創られたモノ>であるのにも関わらず、彼の<主>[=神 (Seigneur)]によるあきれるほど愚かな罠を彼のパロールによって避けることに疑いを持たず、破壊に対して、また破壊に抗って持ちこたえること―主体は<主>がこの破壊を、主がそうすることを宇宙の秩序(Weltordming)の名において正当化する権利によって、主体並びにどの人にも対しても実行できると考えていた―に疑いを持たなかったということに驚くに至る。この権利は主体の側にあるので、無秩序の鎖が創造者の«悪意»( perfidie )を屈服させるという被造物における勝利の唯一つの例の動因となる。(«Perfidie(独)»、留保を込めて(non sans réserve)うっかり書かれたこの語はフランス語である: S. 226-XVJ[邦訳p.186])
 以上のことは確かに哲学のバカロレアを持つ著者による焼き直しに値する。我々の時代が人間主義の尺度を見出しているような、幾分平凡な―あなたがたもそうは思わないだろうか?―心理学のお人よしを準備する線の外にいる人々の間で、我々は余りに侮られるかもしれないが。

De Malebranche ou de Locke, Plus malin le plus loufoque... 
マールブランシュであろうか、ロックであろうか?最も抜け目がなく、最もイかれているのは…

そう、然しそれはどちらだろうか?私の同僚よ、これが大事な点である。さぁ、このお堅い雰囲気を止めにしよう。それでは、あなた方が自身の家にいる時、一体いつになったらくつろげるだろうか?



原注

原注1
とりわけここで問題となっているのは、エルンスト・ヘッケル博士( Dr Ernst Haeckel)の自然の創造史( Natürliche Schöpfungsgeschichte)(Berlin, 1872)とオットー・カッサーリ(Otto Casari)の人類の太古史(l'Urgeschichte der Menschheit)(Brockhaus, Leipzig, 1877)である。
[※シュレーバーを取り巻く知的コンテクストに関しては『言語と狂気』(熊谷哲哉)を参照のこと。]
原注2
声と固有の名との関係は、ランガージュに付随する、メッセージとコードの二つの軸を持つ構造の内に位置づけられるべきである(意訳)。これについては我々は既に言及した。(I.Vers Freudの5を参照。)固有の名についての言葉遊びの機知を示す言動の特徴を決定するのは、この構造である。




訳注

訳注1
現在の『フロイト フリースへの手紙 1887-1904』(誠信書房,2001)に収録されている手紙では112に該当する。これはこの論稿が書かれた時代のフロイト―フリース間の書簡集と現在出版されているそれの版が異なっており、新版では旧版では掲載されなかった書簡、新たに発見された書簡が全て掲載され、番号が(恐らく)振りなおされているためである。
尚ラカンが参照したと思われる書簡集は以下で閲覧できる。
Aus den Anfängen der Psychoanalyse : Briefe an Wilhelm Fliess, Abhandlungen und Notizen aus den Jahren 1887-1902 : Freud, Sigmund, 1856-1939 : Free Download, Borrow, and Streaming : Internet Archive
対応箇所のドイツ語原文、仏訳は
Séance 2 - Lettre 52 112 du 6 12 1896 de Freud à Fliess.pdf (ephep.com)
を参照してもよい。

僕の理論における本質的に新しいところは、したがって、記憶は一重にではなく、さまざまな種類の標識の中に蓄えられて、多重に存在している、という主張です。

『フロイト フリースへの手紙 1887-1904』(誠信書房,2001)(p.211)

ある性的な出来事が別の段階で想起される場合には、快の放出に際しては強迫が、不快の放出に際しては抑圧が成立します。両方の場合において、新しい段階の標識への翻訳は制止されているように思われます。(?)[<この?はフロイトが付したものである]

『フロイト フリースへの手紙 1887-1904』(誠信書房,2001)(p.213)

訳注2

この「奇跡に満ちた構造」の中に今や最近になって亀裂(Riß)が生じているが、これは私の個人的な運命と極めて緊密に結びついている。

邦訳p.25, S22

とあることを考えると、dommageは亀裂(Riß)ととらえるべきなのかもしれない。尚、訳者が参照した独訳ではBeschädigungとなっている。Finkの英訳ではinjuryである。

訳注3
直訳:上述のことは、その形態の下で我々はあること[=X]―シュレーバーはそのあること[=X]の結果を損傷の結果として我々に示したのである。―を考えることが可能である唯一の形態である。
訳注4

より深い状況(Zusammenhänge)を人間の悟性にとって完全に把握できるかたちで示すことは、私にとってもまた不可能なのである。それ[=「奇跡に満ちた構造」の中で最近になって生じた亀裂についてのより深い状況(Zusammenhänge)]は深く謎めいた出来事であり、通常ならば私は予想や推定に頼るだけで済んでいるにも関わらず、私の個人的な体験に基づいてもこのヴェールをはがすことは部分的にしかできない。

邦訳p.25

訳注5

フレクシッヒはシュレーバーに対して魂の殺害を試みた、と言われる。この犯罪の実体は患者自身にとっても不明瞭であるけれども、公表に際して削除されざるをえなかった秘密めいた事柄に関係していることはすでにわれわれには分かっている(第三章)。ここには一本の導きの糸があるに過ぎない。魂の殺害は、ゲーテの『ファウスト』、バイロン卿の『マンフレッド』、ウェーバーの『魔弾の射手』等の伝説内容に触れるかたちで説明されており(二十二項[邦訳二三項])、これらの例のひとつは別の箇所でも取り上げられている。神が二つの人格に分裂する論においては、「下方の」神と「上方の」神が、それぞれ、シュレーバーによってアリマン(Ariman[=Ahrimanと同じ意味])とオルムズドに同一視され(十九項[邦訳二三項])、少し後で若干の注釈が加えられている。「アリマンなる名は、そのほかにまた例えばバイロン卿の『マンフレッド』の中に、魂の殺害との関連において現れている」(二十項[邦訳二三項])。この大変優れた詩のなかには『ファウスト』における魂の契約に等しいと見なしうる事柄はないと言って良いし、「魂の殺害」との表現を捜しても無駄であった。実際のところこの詩と核心の秘密は―異性同胞間の近親相姦である。ここでこの短い導きの糸もきれてしまう。

フロイト全集11, p.143

訳注6

神は最初から神経のみであり、肉体ではなく、それゆえ、人間の魂に何かしら近縁のものである。神の神経は、しかしながら、人間の肉体において限られた数だけ存在するようなものではなく、無限であり、あるいは永遠である。それらは、あらゆる人間的な概念を越えた潜勢力の中に、人間の神経に宿る属性を所有している。特に、それらは、創造された世界の一切の可能なるものに変化する能力を持っている。

邦訳p.14

訳注7

私はここで、私が元来哲学的な頭脳の持ち主であったとか、あるいは、私の時代の哲学的教養の再考の水準にあったとか主張する気は全然ない。場合によっては全く骨の折れる裁判官としての任務が私に、このようなことのために必要な時間をほとんど与えてくれなかった、ということでもあろう。ともかく私は、私が病気になる前の約十年間のうちに、一部はしばしば繰り返し読んできた、哲学的そして自然科学的内容の諸要素の少なくとも若干のものを挙げておきたい。というのも、私の著作の多くの箇所において、このような諸要素に含まれる思想が類似した響きでもって再び見出されるからである。それゆえ例として挙げておく。ヘケル[=ヘッケルと同じ(引用者)]、自然の創造史。カスパリ、人類の太古史。ドゥ・ブレル、天地万物の進化。メドラー、天文学。カールス、星辰・生成と消滅。Wilh. メイヤーの雑誌、「天と地の間」。ノイマイヤー、地球史。ランケ、人間。エデュアルト。フォン・ハルトマンの若干の哲学論文わけても今日的なもの、等々。

邦訳p.58、注36

訳注8
ligen lassen あるいはliegen zu lassenという表現は随所で登場する。邦訳の索引を参照した限りではp.79(S.79), p.108(S.129), p.120(S.144), p.146(S.177), p.295(S.359)等に登場する。ただしこれだけではなく、訳者が見つけたものだとp.127(S.154)等にも登場する。全てを網羅したければ以下のサイトで全文検索をかければ良いと思われる。
Daniel Paul Schreber: Denkwürdigkeiten eines Nervenkranken (fu-berlin.de)

訳注9
この補いの根拠としては例えば

私を「捨て置くこと」、そしてその目的のために私の悟性を破壊することに当初から尽力していた当の光線は、もちろん、ただちに私の男性性の尊厳の感情への―偽善的な―呼びかけを利用することを怠らなかった。

邦訳p.146

 Diejenigen Strahlen freilich, die von dem Bestreben, mich »liegen zu lassen« und mir zu diesem Behufe den Verstand zu zerstören, ausgingen, verfehlten nicht, sich alsbald eines – heuchlerischen – Appells an mein männliches Ehrgefühl zu bedienen.

S.177

訳注10: Finkによれば、S.205参照,邦訳p.168

私自身が―私の部屋の中か庭園で―神の方を向き、―声に出して話すと、私の周りの一切が死の静寂につつまれる。悟性力を完全に備えているひとりの人間のさまざまな生の表出の直接的な印象につつまれている限りにおいて、神には、撤退せんとする傾向が現れてこないのである。そのようなとき私は、あたかも私がさまよう屍体の群れの中で動いている化のような印象をしばしば持たざるを得なかった。あるときなどは確かに、他の全ての人間たち、(看護人と患者)が一語も話せなくなってしまったように思われたのである。同じことは私の視線が誰かしら女性に向けられているときにも起こる。しかし私が視線をそらすか、或いは奇蹟によって起こった閉眼をそのままにしておくかするや否や、または、何らかの精神的活動を行わないままに、換言すれば、何も考えない状態に没入しつつ、声に出して話すことから沈黙へと私が移りゆくや否や、全く瞬時のうちに、大抵は一瞥(瞬間)の内に、以下のような相互に関連しあっている現象が現れてくる。

S.205参照,邦訳p.168

訳注11 
原文はSchreber dicitだが、dicitという語は仏語の辞書には見当たらない様だし、そんな活用をする動詞も無さげ。Finkはsayでとっているが、これはdicterをとったものだろうか?。この訳ではdicterだと思って訳した。またFinkによればS.47を参照

ともかく、この影響はすでにかなりの早期において、思考強迫なる形式で現れたのである―内なる声自身が私に告げたこの表現は、しかし一切の現象があらゆる人間的経験の外部に存しているために、他の人間にはほとんど知られていない。思考強迫の本質は、人間が絶え間のない思考へと強制されること、言い換えれば、時々は何も考えぬこと(典型的には睡眠中に起こるように)によって悟性神経に必要な安静を与えるという人間の当然の権利が、私と交流している光線によって、私が何について考えているのかを常に知ろうと欲し続けていた光線によって、最初から禁止されていたことの内に存するのである。

S.47, 邦訳p.44

訳注12
邦訳p.169,S.206(この参照はFinkの注による)
では「全体のまとまりからと遠く離れ去ってしまった神の神経の「助け」を呼ぶこえ」(回想録原文では:Das »Hilfe«-rufen der von der Gesamtmasse weiter losgelösten Gottesnerven)となっている。エクリの原文は「L'appel au secours (« Hülfe » rufen), émis des « nerfs divins détachés de la masse »」となっており、weiter(遠く)に対応する表現が落とされている。

訳注13
恐らく大事なのは咆哮の奇蹟も、神経の助けを呼ぶ声も、シュレーバーの意志とは無関係に生じているということ。つまりこれが主体のシニフィアン的様態であり、また主体が(シュレーバーと神とに?)引き裂かれているということ?然しこれは恐らく主体が主体として導入されることによって生じる疎外と区別がつかないため論じないということ?
訳注14

このような記述を読むと、ここで若い娘たちのことが念頭に浮かばざるをえまい。小娘たちは、皮肉をこめた調子でガチョウと言われ、品のない言い方だが「鳥の脳みそ」しか持っていないので丸暗記した文句しか喋れず、似たように響く外来語をごちゃ混ぜにしてしまい、その無教養ぶりをさらけ出す。「いまいましい奴め」という声は鳥たちが唯一真剣になる時のものであって、鳥たちに偉大で強いという印象を与えたわけであるから、この場合は若々しい男性の勝利を意味することになるだろう。そして実際、数項のちに(S.214[邦訳176項])、このような解釈を確かなものとするシュレーバーの文章がある。「鳥の魂たちの多くに対し、私は戯れに、区別を付けるために、少女の名を付けたが、これは、鳥の魂たちが、全体として、その好奇心から、官能的快楽の愛着その他から、まっ先に小娘と比較されるからである。これら少女の名の一部はそれから神の光線によっても採用され、当の鳥の魂たちの呼称のために使用されるようになった」。「奇蹟によって生じた鳥たち」についてのこの難しくない解釈から、謎めいた「天上界の前殿」を理解するためのヒントが与えられる。

訳注フロイト全集11p.133

訳注15:fientは糞をするという意味だが、なぜか翻訳は独日英も全てそのように訳していない
訳注16
仏語では'échangeであり、独訳ではTauschesと訳されているが、回想録に登場する神や光線との交流(Verkehr)を指していると思われる。(メモ:注78が大事?)

訳注17
S.196には注はついていない。ラカンが読んだ版を確認していないから何とも言えないが、S.197の注のことを指しているのではないだろうか。その場合はこの注釈からどうして本文のような主張を導けるのかわからない。あるいは、注釈80のことを指しているのだろうか?これはS.196の本文中で言及される。
訳注18
S.188、邦訳p.154の「ここでもまた、すでに以前にも似たような機会があったが、陥りやすい誤解から読者を守らなければならないと思っている。」以降のことを指すのだろうか?
訳注19

神は経験から何も学ぶことができないという考えを私はみずから、すでに随分以前に文字として何度も以下のように記録していた。

S.187,邦訳p.154

訳注20

これに対して神は、生きている人間を知らず、また以前に繰り返し述べられた見解に基づいて、生きている人間を知る必要もなかった。

(S.189,邦訳p.155)

訳注21
邦訳p.105~p.106を参照すれば分かるが、記録方式とは、シュレーバーの肉体が引き延ばされた神経によって別の天体と接合され、この遠く離れた別の天体においては束の間に組み立てられた男たちの様式で人間の姿形を与えられている、精神を完全に欠いたと推測される者によって、シュレーバーの全ての思考、言い回し、日用品、その他所有物、身近にある事物、交際する全ての人物が記録されているという方式のことである。

訳注22

神が間断なくすべての個々の生きている人間の内面を見透かし、その神経のあらゆる感情の動きを知覚し、そうしていつでも任意の時点に「心臓と腎臓を試験した」というような意味における神の前地と偏在などもちろん存在しなかった。

S.20,I, 邦訳p.23

訳注23

神の知性は、少なくとも、過ぎ去った世代に現存した全ての人間の知性の総量と等しい、ということを原則的なこととして定言してもよいであろうと私は思う。なぜなら神は、死後のすべての人間神経をおのれの内に吸収し、当の個人にとってのみ関心が持たれていた思い出のすべてを、つまり普遍的に価値高い知性の構成分としては問題にならない思い出の全てを(徐々に)取り除きつつ、人間たちの知性の相対をみずからの内に統合するからである。

S. 300-P. S. II,邦訳p.247



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