見出し画像

湯船に浸かって、朝。

朝4時半、やわらかな明かりを灯し、湯船につかっている。BGMはつきのみ「舟月」。

変な朝型になりつつある。仕事を終えてすぐさま帰宅し、布団に横になる。そして、日付が変わったころ、スッと目を覚ます。このところ、頭に靄がかかったような眠気が日中もずっと漂っているのだけれど、不思議と気持ちは穏やかだ。今朝は(という表現が正しいのか分からない時間帯だが。もう昨日の朝になるのか)もうこのまま起きていようと心に決め、久しぶりに朝マックをするために家を早く出た。朝しか食べられないあのコンビが昔から好きだ。根っからの夜型人間の私はなかなか出会えない。だからかえって特別感があって、たった200円なのに豊かな朝になる。


ゆったりとした気持ちで到着した職場はなんだか静かで、冬らしさを感じた。夜を通り越して迎える朝ほど、避けたいものはなかったはずなのに、2日続けて迎えようとしている。人の感覚や習慣なんて、数年で変わってしまう。しまう、とは言ったものの、なんだかここ数年の変化は自然に私に馴染んでいて。こうあるべき、きっと私はこうなんだと思い込んでいたものの儚さよ。物事の輪郭をできればそこそこはっきり捉えておきたいという考えが働きがちだが、そこで分析した輪郭も一時的なもので、もう少し変化に柔軟であっていい気がしている今日この頃。揺らがない芯を持ちつつも、柔軟でありたい。じんわり身体が温まっていくのを感じながら、こういう日々の過ごし方も悪くないなと考える。

𖤣𖥧𖥣。𖤣𖥧𖥣。

仕事はもちろん、ここ半年は特に自分の頭の中のを言葉にする機会が多い。畏まった言葉はそれほど多く持ち合わせていないから、カクカクした言葉で語らねばならない時は苦戦している。先輩の言い回しを見ては語彙が足りないことを自覚し、やっぱり人は日々の生活の中で出会ってきた言葉でしか物事を見つめられないし、表現できないのかもしれないと思う。まだ、私の世界は狭い。

一方で自分の感情に寄り添う言葉は、そういう本を割と多く読み、昔から身近にそれらを使って会話する人たちの中で育ってきたこともあって、比較的納得のいく言語化ができているような気もする。こんな仕事をしていて言うのもなんだが、学生時代、これほど言葉というものが一生において大事なものになってくるとは思っていなかった。


ただ、そういう時、恩師の言葉を思い出す。「みんなはさ、人とのコミュニケーションにおいて、言葉とそれ以外のもの…そうだな、ボディランゲージだったり行動だったり…はどっちが大事だと思う?」自分の考えより相手にとって何が、どちらが正解がを先に考えてしまっていたその頃の私は、文学科の教授が聞くのだから言葉なのだろうかとぼんやり考えていた。返ってきた答えは「俺は言葉じゃないと思う。」正直、驚いた。そしたら何故、あなたは言葉の研究をなさっているのか。別に大事さの度合いと研究したいことが重なる必要はないのだが、ふと浮かんできた疑問を口にしかけて、でも聞くのを辞めた。いつかこの人の元で学んでいたら分かるのだろう、聞いて得た答えより、自分で見つけた答えのほうがより馴染むかもしれないと考えていたが、ここ数年、その答えが何となく分かってきた気がしている。まぁ、どちらも大事なのだけど。

𓆡‪‪𓈒𓏸𓂃 𓈒𓏸𑁍‬

彼がそう考える理由はいくつかあるのだろうと思う。その中のひとつだが、言葉は用いるのが上手くなればなるほど、そこに意思を強く働かせて形作ることもできるから、ありのまま、自然に伝える(伝わる)という点においては欠ける部分が出てくる。その点、ボディランゲージや口調、些細な行動は正直だ。それはこちらに気を遣ってくれているのだろうとか、本心だなといったものが、時には残酷なまでに伝わってくる。日常的なコミュニケーションにおいてはそれほど細やかにそれらに意識を向ける必要はないのかもしれないが、大事なやりとりにおいてはその情報さえも必要になってくることがある。恩師は、言葉を学ぶ私たちだからこそ、それに頼って技術のみを高めようとするのではなく、他のことにも意識を向けながら、顔を合わせた相手と接することを大事にしてほしいと考えたのではないか。長年の時を経て、その教えがじんわりと私に馴染んできている。


ほら、面白い。たくさんのカクカクした文章を書いて疲れ切った頭で、そんなことを言語化したくなる朝って。本当に悪くない。去年もそうだったけど、引き続きしてこなかったことにも向き合う、してみる1年にしたい。






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?