ヤミフ・マシガナ

1998年生まれ。早稲田大学社会学専攻。主にエッセイを。稀に短編小説を。

ヤミフ・マシガナ

1998年生まれ。早稲田大学社会学専攻。主にエッセイを。稀に短編小説を。

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海外に長く暮らすということ

一体どれほどの人が、海外に長く暮らしたことがあるだろうか? 旅行や短期の滞在はあっても、家を借りて、近所のスーパーで買い物して、近くのカフェで店員と顔なじみになる人は、そんなにいないと思う。 でも実は、海外に長く暮らさないとわからない感覚がある。 21歳の半分を過ごしたベルリンの小噺。 冴えない留学と小さな豊かさ僕は、2019年の9月ドイツのベルリンに飛んだ。大学生活の中でも一大イベントだった。大学入学早々英語の試験を受けまくり、志望動機書を何度も書き直して、やっと手

    • 12.73kmのナイトクルーズ

      人間関係で嫌なことがあり、久しぶりに自転車でナイトクルーズに出た。時刻は9時28分。 今の時期、昼間に外に出ると、春の陽光を強く感じる。4月なのだから、と思うが、それでも毎年「もう?」という感じもする。ところが、こうして夜に出てみると、空気のなかにまだ冬の分子が漂っていて、安心する。パーカー一枚で出てきたことに後悔はするが、それでもどこか「まだ季節は前に進み切っていないのだ」と思える。 ナイトクルーズをするときは、目的地を決めずに走り出すことが多い。走りながら気分を見極め

      • 狂気・エヴァンゲリオン

        *決定的なネタバレはありませんが、とある要素への記述があります。物語のエンタメ性を損なうものではありませんが、気になる方はお控えください。 エンドロールが流れる間も、僕は一時も油断していなかった。劇場の明かりがつくまで決して立ち上がってはならないと思った。そして、僕以外のほとんども、どうやらそうらしかった。 もはや、誰もが画面に縛られていた。ただ流れる文字列を必死に眺める様は「狂気」以外の何でもない。 この空間は隅から隅まで狂気で満たされていて、狂気さに誰もが溺れている

        • 突然ですが私は「社会を知るたびにクマムシになりたくなる世界線」に生きています

          クマムシ。 「あったかいんだから〜」の方じゃなくて、理科の実験に出てくる方です。 人生で「クマムシ」について考える瞬間は多くの人にとって高校の生物基礎くらいで、「キモイ〜」とか「ちっちゃくて可愛い〜」とか言ってくれれば良い方。ほとんどは教科書の写真に閉じ込められた彼らを一瞥するくらいだと思います。 でも私は何故かここ一年くらいずっとクマムシについて考えています。 別に私は生物学者でもなければ、理系の人間でもありません。かと言って、クマムシを可愛い”コンテンツ”として消

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        海外に長く暮らすということ

          F Gm7 F A#の生彩

          東日本大震災チャリティーソングであるこの曲は、悲しくも力強い。 この歌を聞くとき、我々はあの恐ろしい災害への恐怖と復興への明るいまなざしを同時に感じるだろう。 サビのF Gm7 F A#というコード進行には、あの時からこれまでの全てが詰まっていると言っても過言ではない。つまり、我々はこの曲に「あの時とこれまで」、「破壊と再生」、「絶望と希望」を見ている。 制作の背景この曲はもともとNHKが「東日本大震災プロジェクト」のテーマソングとして企画・制作したものである。著作権料

          大学生活の1/4を失った僕らは今、1/2を失おうとしている

          3月に入り、各大学は新学期の方針を示し始めた。 全科目オンライン、対面とオンラインのハイブリッド、あるいは完全対面。 大学によって対応はまちまちだが、都内の大規模な大学で全ての授業を対面で行うということはほとんど無い。 また、実験や実習の多い理系では必然的に対面が多くなり、講義の多い文系ではほんとんどオンラインになる、という文理間の格差も懸念されている。 都内私立大学の文系学部に通う私も、恐らく週に一回の対面が良いところといった感じである。 僕らは、既に1/4の大学

          大学生活の1/4を失った僕らは今、1/2を失おうとしている

          芸術が爆発しない世界で、僕は僕を爆発させたい

          岡本太郎はきっと今の日本社会を見て、悲しむ。 彼が「芸術は爆発だ」と言ったとき、その意味するところは一般的な作品物としての芸術だけでなく、人のいのちや人間の生そのものの衝動であった。 芸術はもはや爆発していない。 そして今、人々はより一層自身を機械の歯車へと組み込んでいる。 マルクスの資本論マルクスは、資本家が生産手段を私有化したとき、労働者は自ら富を生み出す力を無くしたと語る。 産業革命前の世界は、個人が富の生産の全責任を負っていた。靴職人は素材を仕入れ、型を切り

          芸術が爆発しない世界で、僕は僕を爆発させたい

          短編小説ノーレトリック、ノーセックス(仮題)<後編>

          それから僕らは実に上手くやっていたように思う。 週に一度はカフェで会い、手探りながらも僕らはお互いの脳内に貯蔵する文化的辞典を引き出す訓練を重ねた。僕は太宰治の絶望的な句読点の多さを彼女に渡すことが出来たし、彼女はNEU!のクラウトロック的旋律を惜しげもなく共有した。 僕らはお互いにお互いの言語を交えながら、音楽・絵画・ファッション・政治・歴史・恋愛の話をした。そういった話を彼女としている時、僕はインターネットのことを忘れることが出来た。アイデンティティの一部だったインタ

          短編小説ノーレトリック、ノーセックス(仮題)<後編>

          この孤立した世界で

          これを読んでいる今、あなたは立っていたり、座っていたり、寝転んでいたり、つまり「静止している」と僕は予想するが、もし 「あなたは今止まっているように見えて動いているのですよ。」 と僕が言ったら、あなたは信じるだろうか。 僕は地球の自転やら新陳代謝やら、そういうことを言っているのではない。そういう物理的なものにすぐ思考を巡らせてしまうのは近代以降の人間の病かもしれない。 僕が話しているのはもっと精神世界の話であって、つまり僕が大切にしている価値観である。 では、我々の

          この孤立した世界で

          少女と火災と儚さ

          「儚い(はかない)」という言葉はどうもポジティブな文脈で用いられることが多いような気がする。 試しに、「儚い」の例文を調べてみると、儚い人生、儚い花、儚い瞳などと出てくる。 あるいは、「儚い」で画像検索してみると、花、夜景、そしてとりわけ少女の写真がたくさん出てくる。 いつでも崩れてしまいそうな美しさ。それが儚いの内包するポジティビティなのであろう。 さて、少女とは儚いのか。 青年期の女性が「儚い」として、成人を迎えた女性は「儚くない」のか。 または、青年期の女性

          少女と火災と儚さ

          短編小説ノーレトリック、ノーセックス(仮題)<前編>

          僕はあの女が嫌いだ。心底嫌いだ。 もちろん、会った瞬間から嫌いであったわけではない。それはハウリングのごとく、時間をかけて増幅されていった。 もう名前も覚えていない彼女に出会ったのは、インターネット上の掲示板だった。その時の私は、ただ単純に言語に陶酔していて、多彩なレトリックでもって他者を圧倒し、または罵られることで快感を得ていた。 僕がなかんずく好んでいたのは、知りもしない言語で、巧妙なアートを創造してみせることだった。最初は、訛り言葉を用いて、その小さなコミュニティ

          短編小説ノーレトリック、ノーセックス(仮題)<前編>

          日本人は赤信号で止まりすぎる。

          ドイツに滞在していた頃、大学からほど近いバーで、友人と「ドイツあるある」について話し合ったことがある。インド人の彼は、「ドイツ人は皆、歩道の赤信号に従う」と言った。なるほど、インドでは歩行者用信号なんてあってないようなもので、車やバイクの間を縫って進むのが常識らしいことはすぐに想像ついた。 彼曰く、「赤信号は人間の認識能力のうちに存在するのであって、人のマークやら赤色が僕らの行動を規制することは、全く馬鹿げている。だから、『車が来ているな』と認識したら止まるし、そうでなけれ

          日本人は赤信号で止まりすぎる。

          世の中には三つのものしかない。必要なもの、必要ないけど欲しかったもの、そして必要ないし欲しくもなかったけど価値あるもの。

          最近はコロナ禍で急増したネットショッピングも落ち着き、今はモノで溢れた部屋と頼りない額面を記した通帳が手元に残っている、なんて人はきっと多い。 僕は、ターンテーブルだったり、スピーカーだったり、中古のファミコン(!)だったりを買った。 ターンテーブルとスピーカーは、祖父から譲り受けたYMOのレコード達を生かすために「必要」だったし、ファミコンは必要ではないけど、持て余した時間をノスタルジックに消費するには「あって欲しい」ものだった。 さて、そう一つ一つのモノたちと僕の間

          世の中には三つのものしかない。必要なもの、必要ないけど欲しかったもの、そして必要ないし欲しくもなかったけど価値あるもの。

          鷺ノ宮のワンルーム

          *  ユイは500ml缶に残った、すっかり温くなったハイボールを喉の奥に流し込んだ。目の前には、つい先程まで居たサークルの一つ下の後輩、魚見のお尻の形をくっくりと残したクッションが、魂を放出しきった抜け殻のように座っている。3年生の魚見は、就活の相談と託けてウチに押しかけては、丸5時間彼氏の悪口を言った後、その彼氏に電話で呼び出されて嬉しそうに帰っていったのだ。  だがこれは、ユイにとって珍しい話でもなかった。  彼女はその鋭く長い目と膨よかな唇、人より少し長い足にハイ

          鷺ノ宮のワンルーム

          アポロン神

           僕の旧友、アポロンは全く唐突な奴である。ヤツは、十一時過ぎに「飲み行こうよ。」と誘ってきたりする。「ビール一杯奢るからさ。」とも付け足す。僕は大概それに付いていく。でも、バーで自分語りをするのは決まって僕だった。その間、彼は僕の話に、人一倍大きい耳を傾ける。それは物理的な大きさに変わりなかったが、その耳にはニュアンスを全て吸い込んでしまうような精神的な意味も持ち合わせていた。そして、どんなに下らない話をしても、その耳は最後までそれを聞いていた。  先日こんなことがあった。

          インターネットメディアを通じた感情との付き合い方を考えなければならない。

          日も暮れようか暮れまいか、夕刻。ガラスの向こうで幼稚園帰りの園児が走る。買い物袋を下げた母親が追いかける。園児は目の前の「何か」に興奮して走り出し、母親はその先にある「何か」に危険を感じて引き留めようとしている、と勝手に妄想する。 まさに、これはインターネットなのではないかと思う。ガラスはスクリーンであり、外を行き交う人々は何千キロも離れた土地に暮らす人なのではないか。 このスクリーンの向こうで起きていることを「鑑賞する」ことは出来ても、僕には「通じる」ことは出来ないのだ

          インターネットメディアを通じた感情との付き合い方を考えなければならない。