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 仕事中に気持ちを切り替えたくて手を洗いながら、つめたい水だけが救いだった前職のことを思い出した。
 ごく短いあいだだけ、わたしは美容師をしていた。朝早くに家を出て、日付が変わるころ帰宅する。その間、小さな箱みたいな店内から一歩も外に出ることがない。スタッフが煙草を吸うため常に開けていた高いところにある小窓を、わたしは唯一の逃げ場のように感じていた。でもこの店から出ることはない。カラー剤で汚れたボウルや刷毛を洗いながら涙が出た。なぜか分からないけど「水がつめたい」というただそれだけのことが、救いだった。
 仕事中はずっと室内にいるが、それでもたまーに、外に出るときがある。ちょうど六月とか七月とか、これくらいの時期に多かった。梅雨だと洗濯物が干せないから、洗濯したタオルを大量に車に載せてコインランドリーに持っていく。だいたい、それはわたしの仕事だった。
 お店のレジから必要な金額を渡され、五分ほど車を走らせて乾燥機にタオルを入れる。たしか四十分くらい回るようにお金を入れて、五分かけて店に戻る。終わったかな、という時間になったらまた取りに行く。
 ある日、わたしが「コインランドリーに行ってきます」と先輩に伝えると、いつものようにレジの中から数百円を渡してくれた。そのあと先輩は自分の財布を開くと、わたしに五百円を渡した。
「コインランドリーの横に、コンビニがあるなあ」
 わたしの目を見ながら、ひとりごとみたいな口調で先輩は言った。なにか買ってきてほしいものでもあるのかとわたしは思った。他の先輩からおつかいを頼まれることは多々あったし、それくらいみんなが忙しくしていた。でも先輩は、あさっての方向を向いて今度はほんとうにひとりごとみたいに「きついときには、甘いもん食べるのがいいよな」と言うと、最後にまたわたしの目を見て「この店を離れてるあいだ、誰もお前のことを見てない」と言った。
「そんなに真面目になるな、もっと適当でいい」
 この五百円でサボりなさい、と言われていることにそこではじめて気が付いた。なにも答えられなかったわたしに「早く行かないと雨ひどくなるぞー」と言って先輩は業務に戻った。
 急いでコインランドリーに向かった。コンビニではチョコレートを買って、先輩のロッカーにはおつりとよく食べていた和菓子を置いておいた。
 わたしは美容師を結局続けることができなかったけど、その先輩からもらったやさしさも教えも全部わたしのなかにある。ダサいか、ダサくないか。それで仕事の方針を決める先輩のことが好きだった。わたしもダサい生き方はしたくないな。

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