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大人ならば/「着ないTシャツ」という概念の弔い

30歳の年齢なので、大人ならば、ということを意識するようになった
バズストアやセカストで服をディグるのが楽しいんだけど(こないだはnike ACGのゴアテックスのシェルと、ロスコのフリースをそれぞれ3000円で買って、狂喜乱舞した)
「一度ちゃんとした服を頑張って買って、「ちゃんとしてるもののちゃんと仕方と、その対価」というのを学ばないと、永遠に古着を着てる、ただの見窄らしい中年に成り下がる、というような話を聞いて、それはそうだ。

今日は外苑前から原宿に向かって歩いたんだけど、フィンガリンとかテアトラとかがあって、土日にこういうのをパッと買うために今一番必要ないものは、家にある膨大な服たちだな、と痛感した。パッとサラッとすることがカッコ良いと思ってたし、それを目指すのはダサくとも、目指し続けねばならないのだ。

本屋に行って読みたい本を見つけたときによぎる、本棚の中の膨大な数の「読んでない本」がよぎるが結局買う、みたいなもんかな、と思ったけどそれとはちょっと違う

昔古着屋で買った白いエアフォースワンを洗うのと同じように、オールデンを磨く、そういう人間に私はなりたい

街もそうで、「もうこの街の年齢ではないかな」っていう、雑誌的な価値観と、自分のアジャスト感みたいな直感の狭間、のような場所に定期的に脚を運ぶことが重要なのかもしれない。
今日は、「そうだ、俺はこういう街でパッとサラッと買ったり食べたりする人間になりたい」という思いに久しぶりに襲われた。
10年前に上京して、19歳の5月、23時にスクランブル交差点のスタバでラテを飲んだ時の、あの感じだ。

俺は東京にいる限り死ぬまで結局おのぼりさんだし、かっこいいかどうかは別として「自分が一番イケてる」と思い続けたい。そう思うことはすごくダサいけど、そう思い続けるための努力、とか、努力の仕方、みたいなのをまなびつづけないといけない。
だって、垢抜けようとし続けることは、日本が近代国家になってからずっと市民がやってることじゃないですか。東京だって、江戸だって、京都がイケてるから悔しくて頑張ったのでしょう。

永遠に背伸びをし続けたいが、背伸びの仕方は年齢によって変化していくのだなあ、いろいろがんばろ。という話です。

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