2018,2020,2220

2018_1212

例年より寒さが早く来ている気がする、と思って、Googleで調べると、指定した日付の天気を一覧で見られるページに行き着いた。やっぱり去年より寒いじゃん、と思うのと時を同じく、10年前も、20年前も、50年前も冬はあったんだな、ということが、「気温」という具体的な数字と共に現れてくる。
俺は年末になるとその年に撮った写真を見返すのだけど、今年はカメラを売ったりしたので残っている物が少なく、そして、今までの俺はカメラによって記憶を保持していたということに気づいた。戯れに、先週日記帳を買ったが、早速この一週間は記されていない。明日起きたら、思い出せる限りで書いてみようと思う。
2018年。誰も政治を信じず、天災が起こり、そして渋谷のハロウィンで車が横転させられて、あと梅毒の患者数が70年代を超えた。マッチングアプリのせいだろう。インスタグラムの時代になった。数が多いやつが強い、みたいな価値観が完全に定着した。自分らしさの暴走。自分らしくあれ、という圧力。なんかアメリカと中国がヤバイ感じ。あと冬が早く来た。それだけの年だ、2018年なんて。
俺は今年も何者にもなれなかったなあ、来年こそ、と思う年末だ、というのにもそろそろ慣れてきた。明日は仕事の面談で丸の内に行く。久しぶりにスーツを着る。食い扶持のことを考えるのには全く慣れる気配がない。早起きしなくちゃ。

2020_0931

私はとにかく毎日、自分の時間が漂白されていくような感覚に本当に嫌気が差していて、そしてそんな感覚を持った人は私しかいない、と思えてた。
2018年はまず特別なものだった。誰にとっても特別ではない1年。たぶん日本史には刻まれない1年。 2020年なんてこなければいいのにね、とよく言っていたのは、オリンピック、みたいな、あまりにもわかりやすすぎる「未来」を前借りしてきた「いま」に生きているのにうんざりしすぎていた。朝、学校に行くときに、学校無くなってないかなって思うのの何倍も。
そしてそんな漂白されていく時間とは無縁な、生まれ育った場所のことも嫌いだった。規制される前のSNSには工事中の新国立競技場とか、渋谷のハロウィンとか、そういうものが洪水のように流れてて、ああ、私は早くここへ行きたい、「ここ」が東京じゃなければいいんだけど、いま一番逃げられる場所は東京だ、と思って、毎日を過ごしてた。それが2018年。
私は祖父によってこの名前を得た。晴海。祖父が生まれた1940年、私の国はオリンピックと万博を同じ年にやろうとしていて、そんな馬鹿なことをする国は戦争で負けるに違いないと今だったら無責任に思えるのだけどやっぱり負けて、でも負けるって誰も信じてなかった1940年。日本史に載ってないその万博が行われようとしていたのが晴海。だから私は晴海という名前らしい。
父の姉が生まれたのは1964年、父が生まれたのは1970年、私が生まれたのは2002年、だから、私は、唯一その目でこの国の国家的なイベントを見たことになる。一浪して上京したその年にオリンピックだけど、「見た」というのは適切じゃない。「見ざるを得なかった」という感覚に近い。
オリンピックの前の東京はどんな感じだったのだろう、と、出来たばかりのビルと、まだできていなかったビルがたくさん生えてる様子を見るたびに思っていた。今年の春。目黒川で、慣れない酒を飲みながら、一年先に上京してた友人と桜を見た帰り道の渋谷。それは、もうオリンピックの時間だった。大きな時間だった。だから私には、「オリンピックの前」の東京を想像することは難しい。酔いが回ったので先輩の友人に、「去年って東京はどんな感じだったの」って聞いても、「今と同じだったよ」としか帰ってこない。
もう起こってしまったこと、そしてその起こってしまったことのあとから、そういう、自分が見ていた時間だけを切り出して語るのは、高校生だった自分に、東京へ行きたくて仕方なかった自分に対して失礼な気がする。その「オリンピックの前」の時間に私が勝手に着色するのは勝手だけど、例えば2018年を生きていた人間は、その時間を、真っ白な時間として体験していたのかはわからない。私には到底、わかることではないのだ。
だから、17歳の私が「漂白されていくような時間」の流れる東京を語ることは出来ないことに敬意を払って、私は、2020年から起こったことはここになるべく書かないようにしている。
私が書くのは今から始まる時間のすべてだ。誰も読まれていないこのブログに。明日からは大学の後期が始まる。今日は早く寝る。

2220_0613

かつて下北沢と呼ばれていた場所には水が溜まっていて、その中から錆びたクレーンが生えている。複々線化した小田急はその水の下を悠々と走っているというのに、クレーンと同じように錆び、しかも苔むしていて、ねじ曲がり、ひしゃげている井の頭線のレールが、水の表面の少し下に見える。
オリンピックのあと、今の中国で大きい戦争が起きて、あの大きい災害が起きて、東京が水浸しになったということは歴史の教科書で知った。
私の祖母の住んでいた西久保の団地が取り壊されて、ドローンを作る工場になった。その団地はもともと野球場で、その前は米軍の住宅地で、その前、第二次世界大戦のときには飛行機を作っていたと、なにかに書いてあった。場所の記憶。記憶の反復。
とにかく、ドローンを作りまくって、日本は景気が良くなったらしい。それを「バブルの再来」だなんて呼んで、じゃあ弾けちゃうじゃん、って思ったけど、その好景気は20年くらい、弾けることなくいまも続いている。私たちの生活に影響を及ぼさない好景気。よくあることらしい。
祖母の母は群馬県の八ッ場ダムのあるところに住んでいた、という話をきいたことがある。その話をきいて、いまの東京みたいだな、と思った。住んでいる場所を奪われる、というのはどういう気持ちなのだろう。
この高台から見下ろす水面を私は気に入っていた。防護壁の「あちら側」の超高層マンションが水面に反射してきらめく姿も、水面から顔を出しているビルとか、クレーンとか、全部。
丸の内から吉祥寺に都庁が移ることになって、私たちの住んでいたマンションの値段が跳ね上がったとき、真っ先にいまの部屋に決めた。水際は「次」が来たときの危険地帯だから地上げ屋も手を出さずに、平成に立てられた1LDKが恐ろしく安く借りられて、私は家で仕事ができるので、ぎゅうぎゅうの小田急に乗ってあちら側へ通勤する必要もなかったからだ。
世界が変わった後の世界でしか私は生きたことがない。ずっと、夢の中で生きているような、これは夢だと気づくも、その夢から抜け出せない感覚のまま、私は生きている。私はあまりにもいろいろなことを知らなすぎる。
水面の下の世界に住んでいた人たちは、毎日何を考えて、どんな服装をしていて、誰のことが好きだったのだろう。
八ッ場ダムの下に住んでいた人たちは、どんなご飯を食べていたのだろう。
西久保に住んでいた祖母は、部屋にどんな本をおいて、どんな写真を飾っていたのだろう。
オリンピックの頃の、まだ人がたくさんいた東京は、どんな匂いがしたのだろう。
いろんな人の、私が生きていなかった時代のいろんなものとか、考えが、水の底に深く沈んでいて、私はそれをただ眺めているだけなのではないか、という気持ちになることがある。それとは別に、私の生も、時間と一緒にかってに進んでいく。いつか、私が生きていた、ということも、水の底に沈んでしまうのだろうか。

原子力飛行船が音もなく頭の上を飛んでいく。今日もよく晴れた、夏の始まりかもしれないただの一日だ。

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