小説「落日」

「すまない、すまない、すまない。頼むッ…!」

老いた男が敷布団の上で老婆に馬乗りになっている。男は手を真っ赤に血に染めながらも、シーツを手繰り寄せて出血元の老婆の細い首に押し付け、応急処置を行っている。
女は抵抗していない。空気を求める動物としての当然の反応により、口がはくはくと開閉しているがその口端からは血が流れるだけだ。その動きは弱まる一方で、終いには動かなくなった。
男の手はまるで祈るかように女の首に縋り付き離れない。しばらく時間が経って、ようやく男は動きを取り戻した。

夕陽が部屋に差す。茜色に染まる畳。男の嗚咽が、その部屋を満たしていた。


--遡ること、数ヶ月前。

「ありがとう。」
「いいさ。今日は調子がよさそうだな」

古びた日本家屋には老夫婦が住んでいる。
日に焼けて白色に近くなるまで退色した畳の部屋の中央には、薄い布団が敷かれている。
女はいつもそこに横たわっているが今は男に上体を抱き起こされ、薄い雑炊のようなものを匙に取り、口にしていた。傍には大量の薬がむき出しの状態で皿に置いてある。いわゆる自宅介護であり、両者ともこ慣れた様子からそう少なくない期間は介護が行われていることが伺える。
老夫婦は互いに労いをかけていて、なんとも仲睦まじい。
咀嚼していた女の口からぽたりと雑炊が零れる。男はそれを拭ってやるために予め手近に寄せてあった手ぬぐいを取り、女の顔に近づけて気がついた。
---あぁ、はじまったか。
女はつかの間に魂が抜けたような呆然となっていたが、次の瞬間、般若面に変わった。

「あんた誰さね!!!!!こがなもん食べさせて、なんや!!痛い、痛い!!!あぁ毒でも盛ったんか!!!出とってくれ!!!!!痛い、おまえが!!!!痛い!痛い!痛い!ああ痛い!痛い!」

女は手当り次第に近くのものを男に投げつける。匙、本、老眼鏡が宙を舞う。危険を既に察知していた男はすぐさま薬皿と食器を持って部屋から廊下へ退避する。閉めた障子になにか当たって跳ね返る音がひとつふたつした後、静かになった。

男はため息をついた。やれやれ、ボケてる時はやたら力が強いし敵わんわい。

女はアルツハイマー病である。今でこそボケがはじまるとすぐさま退室しているが、実は介護をはじめたばかりの頃、同じように女が暴れた時は男は女を宥めようとして詰られ殴られても、辛抱強く相手をしていた。
それがある時、堪らず部屋を出た。しばらくして恐る恐る様子を見に行った時に、台風の目はケロリとした様子で男を見やり、上機嫌で「あら、あなた見ない顔ね。新しい下男かしら」とのたもうたのだ。それ以降、男は嵐が始まると避難することにしている。

くつくつと男は思い出し笑いをする。
まぁ、オムツに出した糞を部屋中に塗りたくられるよりかはマシだ。

男は仕事一筋で、専業主婦の女に家の中を全て任せてきていた。だからボケの奇行のすえの糞の酷い悪臭の中、ただでさえ慣れぬ掃除にそれはもう悪戦苦闘した。当時は俺がなぜこんなことをと悪態を着いていたが、何度か壁掃除をやるうちに諦めた。
それに…雑巾を絞っている最中にふと、見合いで結婚して早50数年一緒にいた女へ、それなりに、情があるのだと気がついたのだ。

男はのっそりと廊下を歩き、台所へ入る。テーブルの上に薬を置き、無事だった食器を流し台に置く。食器は軽く水でゆすぎ、食器洗浄機に入れ、代わりに洗い終わっているプラスチックのコップを出した。コップに水を入れて、先程の騒ぎで薬がなくなっていないか数える。

女の朝用の薬はまだ飲ませてないため、再度行く必要がある。
女は意識がはっきりしている時は決して言葉にしないのだが、体の節々にガタが来ており、朦朧した時に痛いと本音を口にする。医者に我慢強い奥さんですね、相当に痛いでしょうにと言われてからは必ず服用させるように心がけている。

果たして、薬はすべて揃っていた。男はコップと薬皿を手に持ち、軋む廊下を歩む。
ふすま越しに耳をそばだてて中の様子を伺うと、しんと静まり返っている。暴れ疲れて寝たのかもしれない。
そうっと音を立てないように、襖を開ける。
女は上半身を起こし、本を読んでいた。先程投げられていた本だ。同じく投げられていた、匙と老眼鏡はきっちり方向を揃えて布団のそばに置いてあった。

「あなた、ごめんなさい。また私なにかやってしまったのね」
「…さァな」
「ねぇ、あなた」
「なんだ」
「私、お昼に自殺をします」

女の告白に男は目を見開いた。内容に驚き、女の様子を伺う。女の目には間違いなく意志の強さと正気が宿っている。驚きはそれだけじゃない。なぜならば女の宗教は、

「“自殺は認められない“んじゃなかったのか」
「知って、いらっしゃったのですね」

あなたは宗教がお嫌いなのに。
男は目を伏せた。女の言う通り、男は宗教が嫌いだ。いるかいないか分からないものに祈ったところで、なにひとつとして変わりゃしない。そんなもんより目の前の事柄を己の手で解決する方がよっぽど建設的かつ合理的だと考えている。だが、配偶者の女が人様に迷惑かけずにやる分には構わない。正確には仕事に忙しく放っておいたのだが。
そして、妻が今も持っている本は宗教の教本で、男は仕事を定年で辞めて暇でしょうがない時に、ふと目に入って読んだことがあるのだ。
教本には、自殺について厳しく弾糾し絶対悪としていた。手慰みに読んだ時に他の文書と比べて強い論調で書かれていたため覚えている。
曰く、「自殺は神に背く行為で紛うことなき悪であり、輪廻転生をする我らは今世だけでなく前世すべての徳を失い永劫に地獄を彷徨い救われないだろう。」


「さて。遺書はこの小箱の中にあります。手段については明かせません。あなたにはご迷惑をかけないようにいたします。」
「…。」
「この事をあなたにお話したのは、決してあなたのせいではないとお伝えしたかったからです。」
「そうか」

男の返答に、自殺を受け入れられたと思ったのだろう、女はほっとした顔をする。

「…私、怖くてたまらなかったのです。自分が自分でなくなっていくのが分かります。物の位置が覚えなく動いている時の他にも、きっと朦朧している。いつも人様にご迷惑をおかけしていないか不安で、辛かった。辛さはそれだけでなく…実は、あなたはご存知ないかもしれませんが、体の痛みも酷いのです。」

女は溜まったものを吐き出すように胸の内を吐露した。
男はその言葉を聞きながら、矢継ぎ早に告げられた内容をゆっくりと咀嚼する。
長年連れ添ってきた女が自殺をすると宣言してきた。女は信心深く、入信している宗教は自殺を禁止しているのにも関わらず。実行寸前の段階で男に告げたのは、男が自責の念に囚われないようにするためだと言う。…女が弱音を吐いた姿を男が見たことなど、朦朧した時を除けばこれが始めだ。

「そうか。」
「えぇ」
「なァ、俺の頼みを聞いてくれないか」
「なんでしょう」
「俺にお前を殺させてくれ」

男の提案に今度は女が目を見開いた。次いで探るような目を男に向ける。
懐疑の目線を真っ直ぐに見返す男の手は緊張でじっとりと汗ばんできている。気付かれないようにさりげなく見えないように握り込む。これは男にとって賭けだ。女の覚悟は十分に伝わってきた。このまま正気であれば必ず実行するだろう。そういう女だ。

だが、自殺の手段をうまく奪うことができたのならば?話は違ってくるはずだ。
昼までに時間はある。人を呼ぶ時間としては十分なほどに。
ボケていたら平穏に、正気でいたら人手でもって力づくでも抑えてしまえばいい。そしてもう金のことなど気にせず病院へ入れるのだ。
卑怯でもなんでも構わない。どれだけボケて奇行をしようが、なじられようが、男にとって女はたった一人の妻なのだ。
件の女は布団を握りしめ、答えた。

「…分かりました。」
「あぁ、方法は俺に任せてくれ。」
「はい。」
「準備して来る。」

男は部屋から出て襖を閉めた後、しばらく立ち止まり中の様子を窺った。本のページをめくる音がする。
女は男の言うことを信じたのだろう。
今しばらくは大丈夫と判断し、足音を消して台所へ行き、家電の受話器を手に取った。頼れる子供も血縁者もいない男は、デイサービスへ電話をした。事情を話したところ、対応してもらえることとなった。

昼前に鍵を開けた玄関からデイサービスのスタッフがこっそりとやって来るまで、男は気配を消して女の部屋の前にいた。女が生きていることを確認し続けるために。
事前にやりとりはしてある。
目線で合図をし合いスタッフとともに部屋に入った男は、賭けに勝ったことを悟った。 女の目は虚ろでボケていたからだ。
スタッフの機転で、今日はデイサービスの日だから迎えに来たよ行こうね、と言うと女は素直に従った。
部屋を後にした2人を後目に男は部屋を漁った。自殺道具はすぐに見つかった。布団の下に毎回捨ててあったはずの空の薬のシートがあったからだ。おそらくこれを誤飲したと見せかけたかったのだろう。盲点だった。捨てた後はいちいち確認などしない。これからは管理することを頭に入れて、男は証拠を回収してスタッフと女が待つ車へ向かった。

病院は頼りにならなかった。
痴呆症病棟はどこも満室で、空きが出るまで最低1~2ヶ月かかり、紹介状を書いてもどこも状況は変わらないと言われた。
自殺について話しても相手にはされなかった。実際に痴呆うつ病の診断を下せる要因や自殺未遂をしたのならば強制入院の措置を取れるが、女に鬱の気配はなく、証拠も空のシートと男の証言だけで弱いと判断された。
言い募れば募るほど、介護に疲れた男の狂言ではないかという雰囲気になって行き、最後は病室の空きが出たらご連絡しますと、あしらわれて帰された。


こうなれば、頼れるのは自分だ。
自宅に戻った男は引き続き自宅介護を行った。
女がボケている時は甲斐甲斐しく世話をし、女が正気になり男が女を殺すという話を思い出して追求されたのならば俺がやると約束したのは明日だろうなどと嘘ぶき、自殺をするための道具になりそうなものはすべて鍵付きの部屋へ隔離した。もちろん鍵は肌身離さない。


そうしているうちに、1ヶ月が過ぎ、2ヶ月が過ぎ、季節が変わった頃。
朝方に病院から男へ、空きが出たので今日の夕方から入れますと連絡があった。
男は胸をなで下ろした。女を見張る日々は緊張の連続で気を抜けなかった。先日の医者は信用ならないが四六時中寝ずの専門医がいる場所へ入れさえすれば、ずっと安心ができる。
夕方からの予約を取り付け、受話器を置く。看護師から聞かされた入院に必要なものを用意せねばならない。


準備を済ませた後、男は女の部屋へ向かった。しばらくこの家に女がいなくなると思ったら、なぜだか女が部屋にいる姿を目に焼き付けたくなったのだ。酷いボケ方さえしなければ、時間まで女と過ごそう。
襖を開けると、女は寝ていた。昼間の柔らかな光が部屋を包んでいる。横に座って、女の寝顔を見つめた。あぁ、ずいぶんと歳をとったな。女の皺の数が、記憶よりも増えていた。女に伝えたら、なんて答えただろうか。


---カタン

物音で男の目が覚めた。しまった、いつの間にか寝ていた。腕時計を見やると、約束の時間まであと少し。急いで家を出なければ。
この部屋の主を起こそうと布団を見やれば、もぬけの殻になっていることに気がついた。なっ、どこへ!慌てて立ち上がり部屋を出るために襖に手をかけた時、襖が勝手に開いた。いや、女が襖を開けたのだ。男は女の無事を確認するために視線を移動させ、ある一点の部分で凍りついた。
女は右手に包丁を持っていた。

「さよなら」

そう言い女は包丁を振り上げ男を斬りつけた。咄嗟に男は躱したため、顎から額にかけて傷ついたものの致命傷にはいたらなかった。たたらを踏んだが、堪えきれずに尻もちをついた男に女はさらに斬りつける。男は傷だらけになりながら、必死に女から凶器を取り上げようとする。抵抗する女。絡み合い、もつれ合う。
決着はすぐに着いた。不幸な形で。
男は女に馬乗りになり、無事に凶器を取り上げられた。だが、その際にひときわ暴れた女の足が包丁を掴んだ腕に当たり、衝動で吸い込まれるように女の細い喉へ刃が刺さった。


「ぁ、あ、あああああああああぁぁぁ!」

男は無意識に叫んだ。もう女の抵抗はない。空気を求める動物としての当然の反応により、口をはくはくと開閉するが血がゴボリと吐き出されるだけだ。
男は咄嗟にシーツを引き寄せ、刺さった箇所から流れ出す血を押さえるが勢いは止まらない。どうすれば。分からない。止まってくれ。血が。妻が!頼む!

男の願いは叶わず、女の口の動きは次第に緩慢になり、弱まり、終いにだらしなく開いたまま動かなくなった。
男の手が女の首から離れたのは、命の灯火が消え去ってから、時間にして5分経ったか、1時間経ったか定かではない。ただ、しばらくの後であることだけは、確かである。

夕陽が部屋に差す。茜色に染まる畳。男の嗚咽が、その部屋を満たしていた。


痴呆症による殺人未遂事件。痴呆症の妻がせん妄により、夫を刃渡り30cm程の包丁で刺し殺そうとした。取り抑えようとした夫が誤って妻を殺してまったことで、新聞の三面に小さく載った記事は、一部界隈を賑わせたもののすぐに忘れ去られることとなる。世間は廻るましく忙しい。
夫は自首をしており、なおかつ正当防衛は認められたものの、裁判では実刑判決が出た。


男は刑務所に入る前、自宅整理のために監察官付きで一時的に保釈されていた。
男はまずは女の部屋に入った。ある程度綺麗にされてはいたが、凄惨な現場に敏感な虫が湧いている。着いてきていた監察官へ部屋の外で待機するように言い放ち、男は相手の反応など構わず遺品整理を始める。
教本、老眼鏡…危険性を排除した女の部屋にはあまり物がない。
教本を持ち上げた際、ひらりと紙が滑り落ちた。拾うとそれは広告の入ったメモ用紙で、家電の傍に置いている物と同一だとすぐに分かった。
メモ用紙の中央には大きく、多少崩れているものの懐かしい女の文字があった。

「これでお相子にしましょう」

男はそこですべてを悟った。
あぁ、お前というやつは。酷い女だ。やりたいこと全部やっていってしまった。
お前の信じる来世とやらがあるのなら、そこで出会って文句のひとつでも言わねば気がすまない。

男はもう一度だけそのメモ用紙を見つめ、丁寧に紙を教本にしまった。

[完]

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