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「沖縄と琉球の大地、間の空間」 伊礼智×青井哲人

小川重雄さんの「2023年日本建築学会文化賞」受賞を祝して、『沖縄と琉球の建築|Timeless Landscapes 3』刊行記念として開催された展覧会(東京展)初日に行われたトークイベントの記録を公開します。
ゲストは建築家の伊礼智さん、建築史家で本書に解説を寄稿いただいた青井哲人​さんです。
2022年12月10日に行われたものを元に構成。

コロナ禍の出張・撮影

小川 皆さん本日はお忙しいところありがとうございます。小川重雄です。伊礼智さんの到着が遅れているので、前座として少し話をしたいと思います。この「Timeless Landscapes」シリーズの3巻目『沖縄と琉球の建築』は、自画自賛ですが、かなりよくできたと思っています。
振り返ってみると、第2巻の『イサム・ノグチ モエレ沼公園』は当初2020年6月に刊行して札幌で展覧会を開く予定でしたが、準備中にコロナ禍が始まってしまいました。泣く泣く出版時期を遅らせ、札幌での展覧会はキャンセルしました。8月、少し感染者数も落ち着いてきた頃になんとか刊行し、夏に東京で、秋に大阪で展覧会を開催して多くの方に見ていただくことができました。
その後、出版社の富井雄太郎さんとともに、続く第3巻をどうするかという話をしました。海外で撮りたいと夢描いているものもあるのですが、コロナ禍で海外遠征は厳しい状況だったので、いずれはと思っていた沖縄をテーマにしました。
まず、2020年の年末に伊礼智さんにお声がけをして、2021年1月8日にこのギャラリーで私と富井さんと3人で集まり、ミーティングをしました。当時は変異株が大流行していて、1時間限定で真面目に話をしました。伊礼さんは沢山の本や資料を貸してくださり、それらを読み込みながら見るべきものを絞っていきました。
直後、2021年1月末にまず富井さんが視察で沖縄に飛びました。レンタカーを駆って沖縄本島の南から北まで、それから伊是名島の銘苅家住宅なども見てきて、私に報告をしてくれました。特に垣花樋川という湧き水の場所は富井さんが偶然発見したもので、「とにかく素晴らしいから入れたい」という話でした。もちろん世界遺産である中城城跡や、既に十分評価されている中村家住宅も間違いないと。それから、ホテルムーンビーチも富井さんが見に行って最大限の評価をされていたので現代建築として入れようということで、なんとなく本の骨格が見えてきました。
今度は私が撮影第1弾として2月半ばに沖縄へ行き、中城城跡と勝連城跡などのグスク(城)、垣花樋川を撮りました。本には収録していませんが、実はそれ以外の城跡もいくつか撮影しています。初回は下見とテスト撮影のつもりでしたが、2月の沖縄は太陽高度が低く、グスクの微妙なカーブがきれいに表現できました。コロナ禍で観光客が少なかったこともあり、良い条件でした。
そして今度は7月に富井さんと一緒に第2弾沖縄遠征をして、中村家住宅、ホテルムーンビーチ、仲村渠樋川、垣花樋川で子どもたちが水遊びをしているところも撮影しました。
中村家住宅では、我々のために1日貸し切りで開けてくださいましたので、吊られた照明や座卓の位置なども動かして調整しながら理想的なかたちで撮影をさせていただきました。
ホテルムーンビーチの吹抜けは、手すりを乗り越えて普通は入れないところに立って、長時間粘って撮影をしました。コロナ禍でお客さんが比較的少なかったので、ホテルの支配人もそのような撮影を許可してくださったと思います。プールの撮影も水着の人が映ってしまうわけですから、もっと人が沢山いたら難しかったかもしれません。結果的にコロナ禍の2021年は撮影にとっては良かったかなと思っています。最後に2022年7月、長く来島自粛要請が出されていた渡名喜島へようやく渡ることができました。
中村家住宅のアプローチの写真ですが、左手にある防風林のフクギが撮影翌年の2022年7月に、虫食いと高齢化のため倒木の危険性があるということで伐採されました。今、この門構えの印象は損なわれてしまっています。フクギは非常に成長が遅いそうで、以前のような大きさまで成長するには数十年かかるだろうといわれています。写真は現当主の方も喜んでくださいました。

中村家住宅のウフヤ(母屋)一番座 撮影:小川重雄
中村家住宅の入口 撮影:小川重雄
ホテルムーンビーチの北ウィング吹抜け 撮影:小川重雄

富井 付け加えると、このプロジェクトで動き始めた頃は2〜3年後を目処に出版しましょうというくらいでしたが、途中で2022年が沖縄本土復帰50周年の節目とわかり、撮影も順調に進んでいたので計画を少し前倒しにしました。青井哲人さんにも原稿の締切を早めてもらいました。

青井 なんだかテンポが急に上がったなと思いました(笑)。

(伊礼智さん登場)


本を手にした印象

富井 それでは始めたいと思います。申し遅れましたがこの本の編集・発行をしました富井雄太郎と申します。
改めてゲストのおふたりをご紹介します。最初にご相談をして、様々なアドバイスをいただき、多くの資料を貸してくださった沖縄出身の建築家、伊礼智さんです。
それから建築史家の青井哲人さんです。この本のシリーズでは、各巻それぞれ解説文を寄稿していただいています。第1巻『国宝・閑谷学校』は建築史家の西本真一さんに、第2巻『イサム・ノグチ モエレ沼公園』は美術史家の越前俊也さんに依頼しました。第3巻では、アジアの都市史などを研究されている青井さんが思い浮かびました。日本の中の沖縄というよりは、もっと広い視点から書いてほしかったためです。また、青井さんは「建築討論」という日本建築学会のウェブマガジンで「沖縄戦後建築史ノート」という特集を組まれていて、それをちょうど最初の沖縄視察時にホテルムーンビーチで読んで腑に落ちるところがありました。収録のリストがおおよそ見えてきた2021年4月に「1年くらいかけて書いてください」と打診しました。
まずは伊礼さんから感想を伺いたいのですが、完成した本をご覧になっていかがでしたか。

伊礼 やはり写真の力が素晴らしいなと思いました。石造の建築や樋川の魅力が大きかったのだろうと感心しながら見ていました。中村家住宅はもちろん良いのですが、伊是名島の銘苅家住宅もすごく良いのです。あれは是非撮ってほしかったのですが、実際に見に行かれて、おそらくあまり手入れがされていない様子が写真に耐えられないのだろうなと思いました。我々が声を上げてきちんと残していかないといけない、伝えていかなければならないですね。

富井 銘苅家住宅は最初の視察で見に行きました。プロポーションが中村家住宅と異なり、低い屋根が印象的でした。残念ながら、もう崩れてしまうのではないかというくらい傷んでいて、状況として厳しかったので、対象から外しました。

銘苅家住宅 撮影:富井雄太郎

伊礼 プロポーションが美しいですよね。僕はかなり好きで、堀部安嗣さんも好きだったりして。だからあれをなんとか、とは思っていたのですが確かに手入れがね……。

富井 青井さんはいかがでしょうか。解説は小川さんの写真すべてを見ずに書かれたと思います。当初から写真に依ることなく書いてほしいというお願いをしていました。

青井 このシリーズ第3巻は、ひとつの作品や場所を対象とした既刊の2冊とは違って、色々な場所が取り上げられていました。そのリストを見て、垣花樋川は知りませんでしたし、与那国島の浦野墓地群も見たことはなかったので、まずはそれらをインターネットで検索して画像つきのリストをつくってみました。すると、これはなにか非常に気合いが入ったセレクトがされていて、しかも解説の文章はそれらすべてに通底するものを書けという超難題で、「じゃあ燃えてみよう」とお引き受けしました(笑)。私は沖縄の専門家ではないのですが、色々と勉強したり、あちこち見て回ったりしながら書いたという感じです。
でき上がった本を見て、震えましたね。すごくきれいで、カチッとした本で、是非多くの方に買っていただきたいと思います。こういう本に解説を書かせていただき、ありがとうございました。

富井 青井さんはご自身を専門家ではないと謙遜されていますが、依頼を受けていただいた時のレスポンスは、「人間が生存するための環境ということを考えていて、人間と大地や自然の関わりのようなことについて書いてみたい」というものでした。最初からとても大きな構想をされていました。1年後、初稿を読ませていただいた時は僕も震えました。

青井 恐縮です。初稿は依頼いただいた文字数を7,000字くらいオーバーしていましたね(笑)。

富井 『沖縄と琉球の建築』だけではなくて、既刊の「Timeless Landscapes」シリーズにも通底する、大地の大きな運動があり、そこにごくわずかに関わっているのが人間であると。そういう視点からすれば、人間がつくる建築など些細なものでしかないのですが、だからこそ尊いというようなことを書かれていると思いました。時間的、地理的な大きさを含んだ素晴らしい文章で、皆さんに是非読んでいただきたいです。執筆をお願いして本当に良かったと思っています。ありがとうございました。

『沖縄と琉球の建築|Timeless Landscapes 3』表紙

沖縄の大地とその色

青井 表紙は中村家住宅の屋根で、ある意味でキャッチーなのですが、ページを繰ると実はこのような赤系の写真はあまり入っていません。グレーが基調で、あとは木々の緑と空の青です。それはつまり「石」が基調として捉えられているということではないかと思っています。石が実に多様な表情を見せていて、それが小川さんの写真によってすごくよく捉えられています。
皆さんも本をご覧いただければすぐにわかると思いますが、いわゆる建築写真ではないですよね。大地や植物といったものの中に、いかに人間が生きる場所が構築されているか、その場所と生活の連関がしっかり捉えられていると思います。
これまでのいわゆる沖縄リージョナリズム(地域主義)的な建築を考えると、やはり赤瓦のイメージが強いと思います。例えば、象設計集団+アトリエ・モビルが設計した有名な「名護市庁舎」(1981年竣工)も赤瓦が載っています。

伊礼 名護市庁舎は花ブロックも赤色ですね。同じく象設計集団+アトリエ・モビルによる「今帰仁中央公民館」(1975年竣工)も柱が赤ですし、そういうイメージをもたれているのでしょう。

名護市庁舎 撮影:小川重雄
今帰仁中央公民館 撮影:小川重雄

青井 ええ。先ほど富井さんから紹介いただいた「建築討論」というウェブマガジンで特集企画をした際も色々とリサーチをしましたが、絵画や彫刻においても、例えばニューヨークなどから入ってくる前衛的なものを引き受けて、その論理にいかに沖縄性を示す細部を乗せていくのかということがずっと行われてきました。そのひとつが瓦であり紅型であって、赤なのです。欧米由来の印象派や抽象画の影響など、その都度モードが移り変わっていくなかでも、沖縄の画家たちによる絵画には赤色が入ってきます。
一方で私はかねて沖縄の環境をそうした沖縄リージョナリズムの視線では捉えたくないと思っていました。最初にリストを見た時に、あまりそうした方向ではなさそうだったので好印象を懐きました。
伊礼さんにひとつお伺いしてみたいことがあります。沖縄の方にとっての沖縄の地域性、それは東京からの視線を受け止めてどう答えるか、という回路が含まれてしまうと思うのですが、どうでしょうか。

伊礼 僕自身は嘉手納町の出身で、隣には読谷村やちむんの里という観光客がよく行くところがあります。あのあたりの土はやはり赤色で、焼き物にもその土が使われています。土が赤いという印象はありますが、もうひとつ記憶に残っているのはやはり白い石灰岩です。でも、土の赤も石灰岩の白も、どちらもそんなに人の手が加わってない自然な色なのです。
僕が子どもだった頃はまだアスファルト舗装がされていないところも多く、地面がすごく眩しかったという記憶があります。真夏は上からの日差しと地面からの照り返しもあって、目を開けるのも大変なほどでした。白い道にはすぐに水たまりもできます。僕らは石粉(いしぐう)と呼んでいましたが、石灰岩を砕いた粉が道に敷かれていて本当に真っ白な世界なのです。地面を少し掘るとすぐ出てくるその石粉で泥饅頭をつくりましたが、すごく硬くなります。それらの白が徐々に風化してグレーになっていくのです。

青井 なるほど。私が思っていた通りのお話ですごく楽しいです。そこら一帯に白い石灰岩があったわけですね。勉強した知識では、表層土は赤いのです。植物の腐食由来で、比較的若い土壌です。その下の層は、80〜100mほどの厚みがある白い石灰岩で、これもまた生物由来ですが、珊瑚礁などが風化して岩石化したものです。大変長い時間をかけて、隆起して海の上に出たり下がったりを繰り返しながら堆積が進んでいきます。時折、地層がずれて崖になったりして、そこから資材としての石灰岩が採取されたようです。伊礼さんにとっては白くて眩しい地面がごく日常の風景だったという記憶は、そうした分厚い歴史のなかでとても意味深いものと思います。それは今沖縄に行ってもあまりわからないですよね。

伊礼 今はアスファルト舗装されてしまっていますからね。

青井 お墓のこともお伺いしたいと思います。石灰岩の崖に横穴のようなものを掘って、そこに遺体を安置して風化させるといった慣習はどれくらいまで続いていたのでしょうか。

伊礼 風葬は僕が学生だった頃は竹富島などではまだ行われていましたね。遺体をそのままお墓に入れて、骨だけになった段階で取り出して洗い、再度納める。沖縄ではあちらこちらに神様がいて、宗教というかアニミズムと深く関わりながら暮らしていました。

青井 意外に最近まで続いていたのですね。風葬もやはり石灰岩の大地に関わっています。そして、その白い石灰岩の層の下には1kmくらいの厚みをもった青黒い粘土層があります。これも時々地層がずれたところで露出していますが、島尻層とも呼ばれる粘土層です。あの赤瓦は、この青黒い島尻層と表層の赤い腐植土(シルト)を8対2くらいの割合で混ぜ合わせて焼くとできるそうです。地層から考えると、沖縄リージョナリズムの赤とは、底の分厚い層と表層の薄い層を混ぜたものということになり、それらの間にあるのが白の石灰岩なのです。
石灰岩は加工がしやすく、人間があまり手をかけずに生きるための環境をつくることができる素材です。旧石器時代、縄文時代に人々が生きてきたのは洞窟や崖の横穴のようなところで、風葬もそうしたところが利用されました。石灰岩は人々が暮らす場の土台となり、素材となってきた。環境であると同時に、身近に触れられる物質でした。原稿を書くために勉強するなかでそうしたことが見えてきて、小川さんの写真とうまく合ってきたなと感じました。

伊礼 同じ赤でも、表紙の中村家住宅の赤瓦と最近の建築で使われる赤瓦の色はまったく違いますね。今、首里城の付近では景観の観点から建築の屋根に赤瓦が使われますが、最近のものはなんだか嘘っぽい赤という感じがします。かつてのような赤瓦はなかなかつくれなくなっているのだと思います。
瓦を留めるために用いられる漆喰も、中村家住宅のものは経年で変色してくすんだグレーになりますが、小川さんの写真にもそれが表れていて素晴らしいですね。

小川 中村家住宅の赤瓦の色を写真で表現するのはかなり苦労しました。キャノンのカメラで撮影すると同時にiPhoneでも撮っているのですが、実はiPhoneの方がそれらしい色が簡単に出ます。ですから、iPhoneの写真も手がかりしながら色調整していきました。

伊礼 伝統的な赤瓦は見るたびに色が違いますよね。光によっても天気によっても変わります。僕が最初に竹富島に行った時は、雨が降った後のしっとりした光で、その時に見た集落の風景が印象的で忘れられません。観光客はどうしても沖縄といえば晴れた青い空と明るい光を思い浮かべますが、僕にとっては沖縄の集落はグレーのイメージです。

富井 赤瓦の名護市庁舎ももちろん実際に見に行きましたが、銘苅家住宅と同じくメンテナンスの問題が気になりました。このシリーズでは時の経過に耐えて生きてきたものを対象としていることから、フィットしないと思いました。

伊礼 小川さんと富井さんで相談しながら判断されたということですね。銘苅家住宅は撮り方によってはあり得たかもしれないですが、確かに全貌は難しそうです。

小川 写真は光や気候の条件に依るので一概にはいえないところもありますし、写真屋さんの気分は変わりやすいですから(笑)。例えば仲村渠樋川は私が2月に行った時は天気がいまいちで、水もほとんど出ていませんでしたので、シャッターを切る気になりませんでした。ところが、7月に垣花樋川を撮った後に寄ってみると、水は豊富で、それがちょうど横殴りの光によって輝いていて、これは撮らなければという気持ちになりました。お話を伺っていて猛然と銘苅家住宅を撮りたくなってきましたね(笑)。

伊礼 この本をつくるうえで考慮された建築のメンテナンス面や、撮るべきものといった判断を沖縄県庁の方に伝えて、手を入れていただきたいところです。
地元の建築家は「那覇市民会館」(設計:金城信吉、1970年竣工)をなんとか保存活用しようと活動していて、色々な検討もされているようですが、構造的な問題もあってなかなか難しそうです。名護市庁舎もシーサーが撤去される前であれば生きている感じがあって僕は良かったと思いますが、今は遺跡のようですね。それはそれで魅力的だと思いますが、おふたりの判断はとても興味深いです。

垣花樋川の魅力

青井 ところで富井さんが垣花樋川を発見したことは、この本にとって象徴的だと思います。その視線でもって沖縄の環境を見直されたのではないかと思っています。そのあたりを是非解説してください。

富井 沖縄本島の南部には山があまりなく、水が貴重です。仲村渠樋川は沖縄建築を紹介する本にもよく出てくる樋川の代表例で、みんなが洗濯をしたり共同浴場があったりという水場です。それを見に行こうとしたら迷ってしまい、垣花樋川の案内板をたまたま見つけました。車を停めて木々の間の小道を歩いていくと、突然開けて天国のような場所が現れたのです。沖縄に着いて那覇空港でレンタカーをして、最初に見たのが垣花樋川でした。傾斜のなかに幾何学で囲われたさりげない水場がつくられ、そこから海までが見えます。下の水たまりの脇の木陰には小さなベンチが設えられ、大きな自然の中に本当にささやかな人為があることで豊かな環境が成り立っています。こうしたものを「建築」として捉えることで全体の通奏低音になるのではないかと。
そういう意味では中村家住宅も建築単体だけではなく、地形があり、そこに石垣で囲った平らな面をつくり、フクギを植えることによって環境を整えています。そうした人為の重なりみたいなものがテーマになっていきました。

青井  樋川(ひーじゃー)の樋という字は、「きへん」に「通る」です。地中の岩盤の中から水を引っ張ってくるイメージです。水を地上に誘導して水場を整備し、そこに馬や牛や人がやって来るという共同の場所です。地中に80〜100mの琉球石灰岩の層があり、その中が時間をかけて雨水などによって侵食され、トンネルや水の道ができます。たまたま天井が落ちたり、地層がずれることで崖のような地形が生まれたり、異なる層や地表と出会い、色々な場所がつくられていきます。ですから、長い時間をかけてつくられてきた大地のかたちそのものを人間が見出し、切り出した石をそこにちょっとだけ並べて、美しいテラス状の水場がつくられているわけです。垣花樋川はインターネットで検索してみると、子どもが遊んでいる写真が出てきます。最初にそれを見た時、都市計画の教科書に出てきそうな楽しげな風景で「いや嘘だろう」と思いましたね(笑)。私も初めて行って、びっくりしました。

垣花樋川 撮影:小川重雄
垣花樋川 撮影:小川重雄

富井 樋川は沖縄にいくつもありますが、他の樋川はもっとしっかり形がつくられています。垣花樋川は大地の水脈がわーっと露出しているような感じがありますね。水量が多くて、1月でもあちらこちらから水が豊富に流れ落ちていました。あと、地元の方に話しかけられて聞いた話ですが、垣花樋川の水は濾過されている層がすぐ近くの仲村渠樋川とは違っていて、十分に飲めるそうです。

青井 他の樋川は、地表に穴があいて水の道が露出したところを人間が押し広げて石垣で固めたようなものが多いですね。垣花樋川は海に面した斜面から水を取っているので、非常に開けています。なおかつ、垣花樋川の下では流れ落ちた水が灌漑に使われています。そうしたすべての一連のつながりとして見ると垣花樋川は本当にすごいですね。

伊礼 僕は行ったことがないのですが、ここには拝む場所があるのでしょうか。

青井 あります。

伊礼 ああ、やっぱりそうですか。生活の場所と神聖な場所とが一緒になっているのですね。

青井 集落があれば、その内部かすぐ近くに水場があり、また神霊にお祈りをする御嶽が必ずあります。自然や大地との関係の中にきちんと人間の環境が位置付けられているのです。 

「間」の空間

伊礼 20年ほど前に、『オキナワの家』(インデックスコミュニケーションズ、2004年、復刊ドットコム、2018年)という絵本を描きました。「くうねるところにすむところ──子どもたちに伝えたい家の本」というシリーズです。そこで書いたのが沖縄の魅力である「間(あいだ)」についてです。例えば「中村家住宅」は建具を開け放つと屋根と柱だけで、どこからが外でどこからが中なのかはっきりしていません。僕が子どもの頃住んでいた家もまさにそうでした。軒下の空間を「雨端(あまはじ)」と呼びますが、そこが子どもの頃の遊び場でもありました。天気にかかわらず遊ぶことができるのです。僕の母は社交的な人だったので、親戚や近所の人たちがやってきて、1日中そこに座っておしゃべりをしていました。そうしたコミュニケーションの場でもある「間」のスペースが沖縄らしいと思います。
また、家の真ん中に「トートーメー」という、いわゆる仏壇があります。うちの実家にも小さい家でしたが、先祖を祀る大きなトートーメーがありました。この世とあの世の「間」を司っていて、神様がいるような気がして、子供の頃は怖かったです。沖縄の人は信仰心が強くて、僕のおばあちゃんや母もお線香をあげながら亡くなった人とよく会話をしていました。
中村家住宅でも見られますが、目隠しであり魔除けの「ヒンプン」もそうです。風水の影響が大きく、正面から来た魔物をバンと跳ね返すといわれています。ヒンプンが町と家の間にあり、ゆるやかにつなぐ役割をもっています。ウェルカムではないけれど、拒絶でもない曖昧な「間」を司っています。
珊瑚礁も、潮が満ちている時は海ですが、引くとそこが収穫の場になって生活を支えます。沖縄は海と陸の「間」がとても豊かではないかと思います。

富井 この世とあの世が明確に区別されていないということでいえば、与那国島の浦野墓地群は、集落からすぐのところにありますが、人が住んでいるところより美しい景色の海際にありますね。

伊礼 海の向こうに神の国がある「ニライカナイ」という信仰もあるので、そうかもしれないですね。

石の造形

青井 今回、グスクについても改めて考えてみました。グスクは単独であるわけではなく、集落が付属していて、按司(あじ)と呼ばれる豪族が館をもち、当然御嶽や水場があり、お祈りを捧げるような祭祀集団、戦争の道具をつくる職人、商人などもいたはずです。グスクは、人間が集団で生きるための総合的な環境のセットとして見直すことができるし、そうすると実におもしろい。
造形もまた興味深いです。中城城跡の曲面の部分は、足元に見られるようなゴツゴツ感とは違っています。頂部の角は、鴟尾(しび)のような不思議な形をもって突出しています。そのあたりはぐっと造形の密度が高まっていて緊張感があり、一方で、角と角の間のゆるいカーブもおもしろい。その曲面をぼーっと眺めていると、ふいに石の重みが消えて、弛緩した布地が垂れ下がっているようにさえ見えてきます。私はその張り詰めた部分とゆるい部分の対比と繰り返しという造形感覚がすごく好きです。おそらく本土にはないものだと思いますが、なぜそうなったのかはよくわかりません。
すごく微妙な問題なのですが、ミトコンドリアDNAの調査によれば、グスク時代に琉球の人々のDNAは九州の人と同じようなものになったようです。南方系や縄文系の人々が長い時間暮らした後、日本の歴史区分では中世から戦国時代に、九州から色々な人たちが琉球へ流れていって、いつの間にかそのDNAにほぼ置き換わったようです。でも造形は明らかに違っていてそれがおもしろい。他方、木造の民家は本土と共通点が多いですね。

伊礼 勝連城跡も曲線が特徴的ですね。構造的な意味があるのかどうかは構造家に聞いてみたいところです。

中城城跡 撮影:小川重雄

小川 中城城跡の撮影は厳密に光を選んでいて、2月に2回現場へ足を運んでいます。最初は勝連城跡に行って、ちょっと勝負をかけて曲面にきれいな影が出る時間まで粘りました。それを撮ってから中城城跡に行ってみると、狙っていた光を逃してしまったので、後日また出直したのです。
この写真では太陽は左上にありますが、もう少し早い時間だと正面から光が当たるのでのっぺりしてしまいますし、遅い時間だと反対側に太陽が回ってしまうので全面がシャドーになってしまいます。立体感、カーブの感じを出すために、壁面をギリギリなめる光を選んでいます。夏だと昼間の太陽高度が高いのでそもそも垂直面に光はあまり当たりません。グスクを撮るにはベストな光でした。
今回沖縄へ行く前に、色々な写真家のグスクの写真を見ましたが、建築写真をやっていない人は、割と青空や海との風景だったり、石に寄った表情の写真でした。形をちゃんと撮っている人は意外といませんね。

青井 沖縄のグスクは「フォルム」という言葉がぴったりで、このためにあるのではないかという造形です。

伊礼 2月の沖縄はあまり晴れませんから運も良かったですね。

小川 2月は4日間の滞在でしたが、青空を捉えるのには苦労しました。

戦争の影

富井 ひとつ触れておきたい話があります。最初に沖縄へ行った1泊目、ホテルムーンビーチに着いて、部屋からテラスに出ると突然の轟音に驚かされました。平和な浜辺の風景からそう遠くないところに嘉手納基地があり、軍用機が飛んでいる音でした。また、小川さんが中村家住宅でドローン撮影をしようとしたところ、内臓のGPSが自動的に反応して飛ばせませんでした。やはり近くに普天間基地があったからです。
よく知られていることですが、ホテルムーンビーチを施工した國場組は戦後米軍基地の仕事を受注して大きくなったという歴史もあります。それらは写真には映らないことですが、戦争やアメリカの影が大きくあり、様々なことが複雑に絡み合っています。
そうした問題については、ずっと様々な本を読んだりしながら考えてきました。本の中でまったく触れないことが良いとは思えませんでしたし、一方で触れ方は難しいなと迷っていましたが、青井さんが解説のなかで歴史に触れながら少し書いてくださいました。

青井 先ほどからずっと話をしている琉球石灰岩が侵食されてできた大きな洞窟、沖縄ではガマといいますが、それが沖縄戦では戦禍から逃げるための場所になりました。そこに日本軍が入り、軍事基地化したり、民間人を監禁したり、生活を制限したりと引っ掻き回す。人々は日本軍から投降すれば米兵に虐殺されると教え込まれていたので、米兵が降伏を促しても出て行かず、悲惨な集団自決が多数起きました。南西諸島の人々がずっと生活の拠り所としてきた場所が、沖縄戦では最大の悲劇の舞台になったということはしっかり考えなければいけないと思います。原稿校正の最終段階で、ウクライナのことも気になっていました。つまり、現在の戦争の状況が教えてくれるのは、日常がいつでも戦場になりうるということだと思います。
ホテルムーンビーチは国場幸房さんの設計で、1975年に竣工しています。1972年に本土復帰をして、今後は観光開発だという流れの先陣を切って、良質なものができたわけです。国場さんは「ガジュマルの木陰」といって、ガジュマルが幹と気根で立ち上がり、枝がぐっと伸びて日陰をつくったその下に人々が寄り添っているような、そんな建築をつくりたいと。ムーンビーチもその好例でしょう。
ただ、私はどうしても洞窟を連想してしまいます。上部に覆いかぶさるような大きな広がりがあり、その下に人々がいるような空間性はガジュマルともいえるけれど、ガマにも通じます。ピロティは近代建築の基本的なボキャブラリーですが、国場建築ではピロティの立ちが高く、大地から建築モニュメントをすっと浮かび上がらせるような一般的な近代建築とは少し違って、大きなフレームで組まれたヴォリュームの下部を彫り込んでいったような、侵食的な感覚がある。色も白っぽいグレーなんですね。赤でもなく、黒でもなく、白の分厚い地層の中に段々と浸食が起きて、穴ができたところに人が暮らしているという雰囲気があります。他の沖縄現代建築と国場幸房さんの建築は少し異なっています。

伊礼 国場幸房さんがご存命の時にお話をさせていただいたことがあります。ホテルムーンビーチはとにかく予算がなくて、いかにボリュームを確保しようかということで思いついたのが半屋外空間だそうです。つまり、室内をつくるとお金かかるから躯体をつくったと。半分くらいが半屋外空間で、そのシンプルな構造体に緑を絡めていて、本当に素晴らしいですね。
国場さんと同じく沖縄の現代建築を切り拓いた金城信吉さんは著書で「障子戸や硝子戸は必要としない、そこに求められるのはただあけっぴろげの闇の空間だけである」(「沖縄の民家」『沖縄・原空間との対話』p.126、発行:金城有美子、2022年)と、「ガジュマルの木陰」と似たような言葉を残しています。僕の先生である奥村昭雄先生もまさに「沖縄の建築は屋根と柱しかなくて、それがいい」とおっしゃっていましたね。

沖縄建築の現在

青井 1960年代から沖縄の建築家たちは、沖縄の地域性をどう表現すべきかという議論を活発に行っていました。おそらく世界的に見てもリージョナリズムの先進地だったと思います。飲み屋に集まって喧々諤々、返還の問題も絡めながら議論していたという話を建築家の親泊仲眞さんにお伺いしました。今、沖縄で仕事をされている若い人たちは、沖縄の地域性について議論されているのでしょうか。

伊礼 そういう話はなかなか聞かないですね。僕らの頃は金城信吉さんの影響も強くあって、どうやって沖縄らしい建築を表現するかをよく議論していましたが、今の若い人たちはおしゃれな建築をつくりますね。かつての沖縄建築は毛深かったのですが、今の若い建築家たちはつるんとした「脱毛主義」だと(笑)。2013年に「沖縄らしい景観・まちなみづくりシンポジウム~目指す姿と残すべき姿~」というシンポジウムで、五十嵐太郎さんはその言葉にすごく反応していました。他方、沖縄でも木造が復活してきていて、沖縄の気候に合った建築をやろうと頑張っている若い建築家もいます。ただ、やはりかつての議論のような熱は感じないですね。

青井 逆にいえば、中央としての東京に対する周縁としての沖縄性を問う必要がなくなっているのかもしれません。例えば、沖縄と同じく米軍が駐留している台湾やフィリピンと比較しながら考えるとか、気候風土や地層・地質の共通性から考えるとか、東南アジアや中国の離島と具体的な連携などもあり得ると思います。

伊礼 確かに時々そういうことをおっしゃる若い人がいます。もう沖縄らしさだけではなくて対等に勝負していきたいと。あとは東京ではなくてアジアの方を向こうと。金城さんも北を上にする普通の地図に疑問を呈し、もっと自由に地図を眺めて発想することや、中国や朝鮮半島、東南アジアの国々に改めて目を向けることを提唱されていましたが、今の若い人たちはそういうことがやりやすくなったかもしれないですね。

青井 そういった感覚が形になって表れたり、これまでと違う言葉が生み出されたりしていくとすごくおもしろいと思います。

那覇市民ギャラリーでの展示 撮影:小川重雄

富井 小川さんは那覇での刊行記念展で現地に滞在されていましたが、お客さんの反応はどうでしたか。

小川 伊礼さんが宣伝してくださったこともあって、若い方もかなりいらっしゃいました。沖縄の原風景を魅力的に捉えていただいた、自分たちも沖縄ならではの景観をちゃんと見直さないといけない、このように紹介してくれてありがたい、といった言葉をいただきました。あとは名護市庁舎をなぜ取り上げなかったのかという質問はかなりありました。あれは建築家の立場からすると沖縄現代建築として避けて通れないものですね。

伊礼 今帰仁中央公民館の方は割としっかりメンテナンスがされていますね。かつてのような、屋根まで緑で覆っているような魅力はなくなっていますが、あの緑化も建築に悪さをしたようです。沖縄は気候が過酷なので、コンクリートを長持ちさせるのも難しいのです。
沖縄の現代建築の特徴としてよく挙げられるものとして花ブロックがあります。アメリカから入ってきて独自に発達したといわれていますが、台湾にもありますね。

青井 台湾の他にベトナム、カンボジア、マレーシア、インドネシアなど、東南アジアに相当広がっているようです。

伊礼 韓国の釜山は町の雰囲気や現代建築が沖縄とすごく似ています。済州島の集落も沖縄によく似ています。アメリカに占領されるとこういう町になっていくのかなと思ってしまいました。アメリカが持ち込んだ文化の発展過程を見た気がします。

富井 聖クララ教会(与那原カトリック教会、設計:片岡献、1958年竣工)は、軽やかな構造が実現されていますが、アメリカの設計事務所SOMが技術協力をしたそうですね。また、浦添市港川の米軍住宅が残るエリアも見ましたが、鉄筋コンクリート造平屋の建物がカフェや雑貨屋などにリノベーションされて賑わっています。通りにアメリカの州名が付けられていたり、ある種の憧れが感じられました。

聖クララ教会(与那原カトリック教会) 撮影:小川重雄

伊礼 琉球は独立国でありながら弱小だったために、中国を敬いながら、結局は薩摩がやってきて日本世になります。戦後アメリカ世になってスパムやステーキが普及したり。そういった文化の積み重ねみたいなものも沖縄らしくておもしろいです。様々な文化を排除しないで取り込んでいくのです。
僕の親は第二次世界大戦中に青春を過ごし、やりたいこともできずに食べていくだけで精一杯だったと思いますが、そうしたなかでも空き缶で三線をつくったり、あまり物事を深刻に捉えすぎず、その日その日を生きてきたところがあります。今はまた新しいフェーズに入っていると思います。触れている情報は沖縄でも東京でも変わりませんから。

青井 沖縄も琉球も国家という単位で見ると、どの時代においても常に端に位置しています。中国の端であり、日本の端です。さらに遡ってみても、縄文文化の端であり、中国南部からマダガスカルまで広がったオーストロネシア語族の南島系先史文化の時代においても端でした。
解説のなかで今日まだ一言も触れていない話題としては、沖縄には古代がないということです。 他の研究者がそういうこと書いていらっしゃるかどうかは把握できていないのですが、かなり重要なことではないかと思い当たりました。例えば、日本であれば大和の朝廷の権力が国土を覆いました。条理制や税制があり、役人が中央から派遣されて一元化されるのが古代です。中国では長く古代が続きましたし、ヨーロッパであれば古代ローマという強烈な権力がありました。沖縄・琉球にはそういった中央集権的な力が及ばなかったので、固有の場所に即した先史の生活文化の段階に、古代的な時代を挟まずにいきなり中国と日本の中世的なものが入ってくるようなところがあります。以降も様々なものが入ってきて積み重なっていきますが、古代的なものの蓄積と調停されることがなく、色々な外来の文化や力が直接に風土とぶつかりながら造形されていく。うまくいえないのですが、グスクの造形なども含めた独自の文化の鍵は「古代の不在」にあるのではないかと思っています。

会場の様子 撮影:小川重雄

会場参加者からの質問

参加者 4カ所のドローイングが収録されていますが、垣花樋川は現場で測量をされているのでしょうか。また、ドローイングがあるものとないものの構成理由について教えてください。

富井 1点目のご質問についてですが、垣花樋川はおそらくちゃんとした図面が世に存在していませんので、遠藤慧さんが現地で実測されています。Googleマップや3Dスキャンも使いながら描かれています。中村家住宅は修理工事報告書がありますし、ホテルムーンビーチも国建さんから資料として提供いただきました。中村家住宅でも3Dスキャンが用いられ、ホテルムーンビーチの客室は現地で細かな実測がされています。
2点目については、複数の場所を収録していますが、結果的に写真のカット数、ページ数が多いのは中村家住宅とホテルムーンビーチです。ですから、それらは載せようと。あとは垣花樋川をシンボリックに扱っているのでドローイングを載せています。どういうドローイングにするのかは遠藤慧さんと相談しながら決めていきました。

垣花樋川平面 ドローイング:遠藤慧

内藤麻美(『新建築』副編集長) これまでの2巻では、1日の内の時間を選んで撮影されていて、明け方や夕景がありましたが、今回の『沖縄と琉球の建築』の写真において時間はどのように考えられたのでしょうか。

小川 『沖縄と琉球の建築』は夕方の写真が1枚もありません。渡名喜島の集落の写真は山の形をきれいに出すのと、少しくぼんだところにある集落の影を表現するために早朝ですが、それ以外は昼間の写真です。いろんなモチーフを集めた写真としては、私としてはこのやり方は良かったかなと思っています。『イサム・ノグチ モエレ沼公園』は朝焼けや夕焼けなど風景写真的なところもありましたが、今回は感情的ではない、即物的な写真を意識していました。
あとは、夏の昼間の真上からの強烈な光を表現したいと思っていました。ホテルムーンビーチの吹抜けや中村家住宅の中庭に光が落ちている写真は、太陽が最も高い季節の、最も高く上がる時間を選んでいます。

冨永祥子(建築家、工学院大学建築学部建築デザイン学科教授) 私も本を見て、まず夕方の写真がないなと思いました。例えばひとつの建物を題材にして本をつくるのであれば、朝・昼・夕方の写真を並べるとストーリーができるというか、まとまり感が出ますが、今回は様々なものを扱われているので、そうはしなかったんだろうなと想像しました。
小川さん自身は、先ほど青井先生がおっしゃっていたような「沖縄らしさ」は意識されていたのでしょうか。写真家としてどういうことを考えながら撮影されたのでしょうか。

小川 私は撮る前も撮っている時も実は特別なことは考えていません。それぞれの形を最もそれらしく撮るにはどうするか、いかにかっこよく、美しく、正確に伝えるか、そのための光の選び方や立ち位置について考えています。それは現代建築を撮るのとまったく同じですね。現地では、そこに身を置いて自分がどう撮りたいかという気持ちの盛り上がりに任せています。
写真のセレクトは毎度富井さんに一任しています。編集は相当苦しむだろうなと思いましたが、投げっぱなしです(笑)。かっこよく言えば、彼の編集に全幅の信頼をおいているので、自分が気に入っている写真を落とされても基本的に文句はありません。実は与那国島の浦野墓地群は結構夕日でも撮っていますが、すべて落とされています。富井さんの深い思慮なのでしょう。夕日の写真が入っていても悪くはなかったと思いますが、少し違和感が出るかもしれません。今回はこれだけバリエーションがあるので、スタンダードな光を並べるだけで何か浮かび上がってくるものがあるのではないかと思いました。

富井 そろそろ時間いっぱいですので締めたいと思います。皆様、本当にありがとうございました。

[2022年12月10日、GALLERY Oにて収録したものを再構成]

『沖縄と琉球の建築|Timeless Landscapes 3』
写真:小川重雄
解説:青井哲人
ドローイング:遠藤慧
デザイン:秋山伸
翻訳 ハート・ララビー 松本晴子
協力 伊礼智 国建 新嘉喜長健
ISBN:978-4-910032-07-8
https://www.millegraph.com/books/isbn978-4910032078/

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