備忘録

25年ほど生きてきて、葬式に参加したのは、小学生の時に母方のひいおばあちゃん、高1の時に母方のおばあちゃん、大学生の時に父方のおじいちゃん、そして直近、社会人3年目に父方のおばあちゃん、の4回。まあ期間的には5年に1度くらいだろうか。
それぞれの式でそれぞれの歳なりに色々思って、感じて、考えたことがあったと思う。小学生の時は単純な悲しさだけだっただろうが、高校生の時は親戚関係事情の複雑さにかなりいろんな感情が錯綜した覚えがあるし、大学生にもなると大人になって、親を手伝うことへ気を配れるようになった。

今回はというと、今までで1番色々な経験をして、地に足をついてしまった気がする。
父方の祖母は、父親の実家に祖父と2人で暮らしていたが、祖父が亡くなり、祖母も体調があまり優れなかったことから、私の実家の近くの病院やホームを転々としていた。私の母親は看護師免許を持っていて医療に詳しく、父は管理職の会社員で多忙なこともあり、母親がケアをしていた。結局何年になるのかわからない、多分4-5年はずっと面倒を見ていた気がするし、その間母親も本当に大変そうで、よく愚痴をこぼしていた。私は母の話を聞きながら、共感したり、でもやはり祖母という少し他人な関係性を他人事に見たり(年に1回日帰りで会うくらいだった)、でも真剣に向き合っているからこそ愚痴をたくさんこぼす母を労った。

祖母の存在は、上記の通り年に1回しか会わない存在で、しかも母方の実家の方が好きだったので、あまり強い感情を抱いたことはなかった。普通に可愛がってくれて、訪れたときは美味しいお肉で焼肉を用意してくれる。ごく普通の祖母と孫の関係だった。
でも介護が始まり、最初の1.2年は、母親からの愚痴を聞いていると、実の親子関係でもないのに母が1番苦しんでいたり、病気でボケているとはいえ、母親の悪口を口にしている様子を目の当たりにした際は、本当に腹が立ち、かと言って自分の父の実の母を強く罵倒もできず、複雑な想いだった。
それがここ1年半くらいは、みるみる私の知っている祖母の様子とは一変し、どんどんと弱々しくなっていく姿に、正直戸惑いが隠せなかった。昔のように会話もできない状態で、だんだんと聞き取りにくくなる言葉を聞いていると、どうすればいいのか、感情の置き場がわからなくなってしまった。弱々しくなる祖母、でも時折見せる笑顔が可愛くて、赤ちゃんのようにゼリーを食べたり、散歩を楽しむ様子を見ていると、この時間がもっと続けばいいのにと思った。やっぱり施設に長い時間1人でいるって確実に辛いことだと思った。

事態は突然だった。私がたまたま母親と電話して、何気なく聞いた祖母の様子は、実はもうあと1.2ヶ月かも、ということだった。つい2ヶ月前一緒に散歩をしたのに、調子が良さそうだったのに、思考が停止した。そのあと帰省のタイミングがあったので、お見舞いに行こうかと2人で言っていた。
帰省して久々の実家で母と話に花を咲かせていたお昼時。ちょうど母親が自宅で開業し、友人から届いたお祝いを開封していたときだった。私がトイレに行って、帰ってきたら、深刻な顔で電話する母の様子があった。
急に血圧が下がったと連絡が来たので、2人で急いで施設へ駆けつけた。数ヶ月ぶりに見る祖母は、もうかなり弱っており、ただラッキーなことに少し会話をし、弱々しいが笑顔も見れた。私が仕事で上京していることを理解しており、それは私がした最後の祖母とのやりとりとなった。休日出勤だった父親もそのあとに来て、3人でしばらく病室にいた。9月の三連休の土曜日のことだった。

夕方になって、落ち着いたし帰ろうか、と話していたが、帰り際にまた体の痛みを訴え出した祖母を見て、結局私と父親が自宅へ帰り、母が夜中祖母に付き添った。次の日の日曜の朝に父親と交代し、夕方にまた母親と交代し、また夜中母親が付き添い、、その間祖母はずっと痛み止めの薬を注入しており、あまり会話はなかったそうだ。

月曜日は三連休の最後で、私は仕事もあり東京に帰る必要があった。最初の連絡からなんとかもってはいたが、やはり弱っている祖母の様子を聞くと、長くてもあと3日とのことだった。とんぼ返りになりそうだね、と家族と話して月曜の昼に東京へ帰った。東京について数時間が経ったとき、電話が鳴って出ると母が泣きながら私に祖母の他界を伝えた。
5年ほど、体調が悪い祖母を見てきて、悪化している様子をも見てきたにもかかわらず、死の実感は湧かなかった。とにかく準備しなきゃ、と思いつつ、体が三日間の疲労で動かず、火曜の昼頃に大阪へ戻った。

今回のお葬式は、親戚とのこぢんまりとした家族葬のようなものだった。親戚もかなり歳をとっているため通夜はない代わりに、祖母のお風呂(棺に入る前に最後体をきれいにしてくれる)を見て、お家みたいな葬儀場で私の家族だけで夜ご飯を食べた。父親が看取り、母と弟は施設で見ていたが、私はお風呂の時に初めて亡くなった祖母の姿を見た。顔を見ると、2日前に会話した顔とは全く違って、眠っているみたいだった。そこで初めて実感して、涙が溢れてしまった。
晩ごはんは、久々に家族4人で揃って食べた。寿司を5人前手配してもらい、喉が通らず余ってしまうんじゃないかと両親が心配していたが、ペロリと平らげてしまった。少し時間を忘れて過ごす家族の時間は、どこか頭の片隅に悲しさはあるも、談笑して、思い出を振り返って、とてもいい時間を過ごせた。結局足りないや、、となり、私と弟で追加の料理の買い出しに行った。兄弟水入らずで久々に話すことができたし、両親は両親で2人の時間を過ごせたみたいだった。その間、母親が号泣していたことはのちに父親から聞いた。少し前に祖母が公園に行きたいと言っていたのを今は猛暑だからもう少しだけ後に行こう、と延期にしたことを母はものすごく後悔し、色々振り返ってもっと何かできなかったか、と悲しんでいたらしい。たくさん愚痴を言いながらも、祖母にたくさんの気持ちがあった母親は、実の息子の名前も忘れていたのに母のことだけ最後まで理解していた祖母の様子を見ると、報われていたんじゃないかなと、今は思う。

葬儀はこぢんまりとしつつ、お花がたくさんある心温まる式だった。最後に祖母が入った施設も緑に囲まれていたからそこに決めた、というように、お花で囲みたいというのは両親の1番のこだわりだった。
棺に思い出の品とお花を手向けているとき、父親の目に涙を浮かべた様子が見えた。滅多に見ることのない父親の涙は、私にとって今回1番応えたものだった。祖母と父の関係も、特別仲の良いものではなく、なんというか、会いに行っても父親がぶっきらぼうになって話すことを拒む(恥ずかしがる)いわゆる昭和時代のごく普通な母子関係だった。普段真面目な父親は、会社でもきっと任される存在だろうし、実際喪主としてスピーチをしたり、成人男性として常時しっかりする姿が見えるというか。でもやはり一瞬でも息子として、実母の死を悲しむ姿を見ると、今まで自分が感じたことのない感情が浮かんだ。
1番見たくないものは、父と母が悲しんだり苦しんだりする事で、次に見る涙はどちらかが死んだ時だけでいいと、そう強く感じた。

祖母の葬儀中、どうしても想像してしまったのは両親のことだった。まだ母方の祖父がいるので、次ではないが、その次に迎える葬式はもしかしたら両親の可能性があるという事実が、どうしても向き合えず、ぼろぼろと泣いてしまった。上京し、年に何度かしか会えず、少しずつではあるがどんどん老いていく両親を24歳の私が見ると、どうしてもそんなことを考えてしまう。祖母の葬式でこんなにも悲しくなるのに、実の父親と母親が死ぬというのは、どれだけ心が張り裂けることなんだろうと、そこまで考えると声を上げて泣いてしまいそうで、お経に集中した。

そんなことも想像しながら、親戚を見送り、家族4人で火葬を見届けた。重い扉を閉めてボタンをガコンと押すと、一生の別れを実感した。あの瞬間はやっぱりどうしても葬式の中で1番苦手な瞬間な気がする。数時間後、骨になった祖母を大切にお骨の壺に入れて帰宅した。どっと疲れが押し寄せて、気づけばソファでうとうとしていた。

今までで1番、時間の経過を感じ、ここには書いてないが親戚の複雑な事情などと一緒に錯綜する感情も抱き、そして1番死を近く感じた時間だった。人はいつか必ず死ぬけれど、最近それがとても怖く感じてしまう。急に訪れてしまうことをふと考えると、涙が出そうになる。大切な人に一生触れることができない世界線って、それはもう本当に胸が張り裂けてしまいそうなのは想像ができてしまう。
徐々に感じることが繊細になる中で、構えることなんてできないけれど、私の大切な人たちがどうか少しでも幸せに笑顔でいられますようにと、それだけを願ってじっくり考えることはやめてみた。

祖母が亡くなったあと、数少ない遺品の中にあった祖母の日記を見ると、もう力がうまく出ない祖母の震えて、でもどこか柔らかな字が不規則に並んでいた。1文、2文の日記だったが、力を振り絞って祖母の日々の感情が表れていた。その中には私がお見舞いに行った様子も書かれていた。祖母の小さな愛を感じた。居なくなってからでは遅いと気づくのに、時間がかかった。小さく、細くなった祖母をもっと抱きしめればよかったと、たった今、記録に残しながらそう心底思った。



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