DEPARTURES

今になって思えば、父を送るのはこの歌が相応しかったなと思う。


父が死んだ。

父は、私と同じように、うだつの上がりきらない物書きとして生きて死んでいった。

だから私は父を文章でもって送ろうと考えた。これはそういう文章だ。

限られた親族だけの小さな小さな葬儀はつつがなく執り行なわれた。
葬儀というのは、残った人たちのためのものである、と私は思っている。

今回も、遺された人筆頭である喪主、母の希望に沿って式は執り行った。
葬儀が済んだ後のこの文章は、だから、私のための儀式でもある。
死人に鞭打つようだけれど、遺されてしまったのだ、それくらいの話のタネにされるのは許して欲しいかなと思う。


危篤(3カ月ぶり5度目)などと揶揄する程、今回も、また、あっさり退院してくると本人すら思っていた矢先の死だった。そして、誰もがきっと考えないようにしていながらも、薄っすら予想していた死でもあった。

死因は「異所性静脈瘤破裂」と記載されている。

ちょうど2年前、急に黄疸を出して全身黄色くなった父は、病院に担ぎ込まれ、ステージⅣの膵臓ガンと診断された。
この診断の時点で、父自身をはじめ、私と母も父の死を強く意識した。

しかし、どういった幸運か、膵臓ガンを切除できてしまった父は、生き延びた。
切除しようが薬で小さくしようが、再発率が異様に高いこの厄介なガンは、父が死ぬまで再発をすることはなかった。しかし父は死んだ。
本人も、そして父の主治医も大変に無念な死だったと思っている。

ガンの治療は大成功だったのだ。
ただ、ガンを父から取り除いた手術は、結果として父に死をもたらした。

膵臓と言う臓器は、人体にとって重要な臓器が入り組んだ場所にある。
それ故に、膵臓ガンでとにかく人はよく亡くなる。父が生涯の長い間使い続けたMacintoshの父ジョブズもそうだし、瀧波ユカリ先生のおかあさまなど、聞こえてくるガンの死因でも多い。

まず、自覚症状が少ないので、発見された時にはからだのどこかに転移していることが多い。また、複雑な組織ゆえに、切れない状態であるものも多い。とにかくあの臓器の周りは入り組んでいるし、肝臓という、人体にとってたいへん重要な臓器のそばだ。

しかし父のガンは転移していなかった。そして、大手術ではあったものの、切除ができてしまった。

そう、大手術だった。朝一番に手術室に入っていった父と主治医が出てきたのは、暗くなってからだった。夏至も近い6月半ばの話だ。私は待合室にあった手垢にまみれたマンガ本を何周も読みながら、悪い想像力が異様にたくましい母親の杞憂に適当な相槌を打ちながら待った。

疲れ切った表情の主治医の先生は、それでも淡々とするどい目つきで、父が一日中何をしていたのか丁寧に説明してくださった。
複雑な組織の一部を切り取って、さらに複雑に繋ぎ直す、そんな手術だった。

そうして2年、再発はなく、そう、手術でガンは取り除かれた。

しかし、複雑な組織を複雑に繋ぎ直したかのように思えたその手術は、父の体に新たなエラーをもたらしてしまうこととなった。

肝臓に栄養を運ぶ重要な血管、門脈が癒着したのだ。

予期せぬエラーに、しかし、父の生命力は、それだけでは諦めなかった。門脈の周りに、微細なバイパスをたくさんたくさん作り、肝臓に栄養を送り込み続けたのだ。

その事実を、父と父の主治医が知るのは、手術から数ヶ月したとある春先に、孫のためにと出掛けたイチゴ狩りでインフルエンザを移され、治りがけに下血して病院に運び込まれた時になる。

運び込まれた父を診た主治医の先生は、見たこともない無数の静脈瘤という名のバイパス血管に頭を抱えた。
一つ静脈瘤を潰しても、無数の静脈瘤をどうすることもできない。それをなくすことは肝臓への血流を殺すことと同義であった。

この時から、父は無数の爆弾を抱えて生きることになる。

果たしてなんども破裂しながら、その爆弾はついに父の命運を尽きさせた。それが今回の死だった。


父の死は常に私のそばにあった。

しかし私はそれになんら取り乱すことはしなかったし、本当に死んでも、あまり泣きもしなかった。

父が死んだ朝、臨終から十数分後には、私は母と葬儀場をさがし、予約し、打ち合わせをし、必要な連絡を済ませ、父の趣味のアマゾンマーケットプレイスの売上を発送した。母はなんども泣いた。私は、泣かなかった。夜に少しお酒を飲んだ。小声で「献盃」と言った。父は下戸だった。

母は酒を飲まない男と結婚したくて、父を選んだと言う話をなんども聞いた。母の実家の隣には、酒乱のおじさんが住んでいて、おじさんの奥さんはいつも、殴られた酷い顔で母の家に逃げて来たのだそうだ。だから母はお酒が嫌いな女に育った。配偶者の条件に下戸をあげるくらいの。
もとから認知がユニークで、物事をゼロか一かでしか考えられないタイプの母は、私がお酒を一滴でも口にしているのを見ると、アル中の恐ろしさを過剰に説いた。一部の知り合いならよく分かると思うが、過ぎたるは尚及ばざるがごとしという、絵に描いたようなアル中に私は育った。

そんな極端な思考をする母とはちがって、父とはそれなりに言葉のキャッチボールができた。
しかし、父は、相容れない考えを受け入れることのできない弱さがあった。家族が何を言っても、自分の考えを曲げることは最後までなかった。

父は和歌山の出身だ。戦後間もなく誕生した父は、戦争と放蕩で家業が潰れた一家に生まれたそうだ。そして父の父、つまり私の父方の祖父にあたる人は、父が10歳ほどの頃に、戦争のノイローゼを拗らせて自殺をした。その後、一家は全員で働いて、父も新聞奨学生としてずっとずっと働いて、地元の大学を出て、バーテンをして、上京しようとしたけれども北関東に寄り道をしてしまい、そのまま群馬で死ぬことになった。
新聞奨学生であったからか、身体が丈夫な父だった。体格もよかった。私は父を見て育ったため、自分より骨格が華奢な男性が苦手だ。

そして、自分の弱さを理解できない人が苦手だ。

上京予定が不時着してしまった北関東で、父はコピーライターを目指し、地元の小さな広告代理店で働いた。結局定年まで勤め上げ、再雇用されて間もなく社長と大げんかをして辞めるまで、父はそこで働き続けることになった。

企業人としての父は、娘から見てもだいぶ頼りなかった。
社用車で事故を起こしても、一人で謝りに行けない。母親に謝罪に付き合ってもらってなお、その後も何度も持ち前の気の短さで事故を起こしていた。そのたびに修理費は給与から引かれた、と母はそのたび私に愚痴った。
自分のミスに対して自分だけいやに寛容で、無駄に強気に出ては社長と喧嘩をし、辞めると言って啖呵を切って帰ってきては、母と一緒に謝りに行っていた。
更に、金遣いにルーズで、格好を付けたがった。コピーの勉強と言いながら最新のエンターテイメントにはすぐ飛びついていたし、読みたい本も際限なく買って、ある日家の床が抜けた。ちなみに完全に余談ではあるが、その数ヶ月後に私も家の床を抜いた。それから、外見を飾りたがり、高級な衣類を金に糸目を付けず着きれないほど買った。

そしてそんな暮らしをしているからか、常に家計は破綻していて、母が実家によく金策に走っていた。私のおもちゃはだいたい祖母が買ってくれていたし、節目節目の祖母のお祝いで、私は学校で惨めな思いをせずに済んでいた。

そんな父は、それでも、自分の悪いところに薄々感づくそぶりをしながら、最後まで生き方をあらためなかった。

晩年、膵臓がんを患った翌月に切れた医療・生命保険は借入の返済に消えたし、膵臓がん切除直後に父が入れる医療保険などなく、葬儀代どころか借金を残して父は逝った。

父は、男が頑張る姿を見て育たなかったのかなと思う。見たのは、弱々しく死んでゆく自分の父の姿だったから。父には兄が、つまり私から見たおじがいるが、彼もまた父と似たタイプだ。だから仕方がないのかもしれない。

私は、父も母も苦手だ。
だめな人と、だめな人を甘やかして、二人揃ってゆるやかに家計が破綻していくのをただ見守るしかしなかった二人が苦手だ。できれば関わらずに生きたくて、私は大学卒業とともに家を出た。母親に呪詛を吐かれながら。父親は呪詛を吐く母親を見もせずに、静かに見守るふりをして目を背けて趣味の世界にいたのを私は知っている。
それからは、私は実家から極力距離を置いて生きた。

しかし、家を出たとは言え、私は20代のほぼ全ての土日を実家への奉仕に充てていた。実家に毎週帰っては、掃除をし、庭仕事をし、料理を作った。だめな人たちを完全に切り捨てるためのなにかは、私の中で死んでいたのだ。
しかし、結婚に前後して私は人生において大変な痛手を複数負い、その時に半ば自棄になって、それまで後生大事に捨てられずにいたモノも人間関係も全てかなぐり捨てた。

それから実家との交流は年に数回になった。

しかし、子供を産んでから、私はまた鬱状態になり、一人で乳児を育てられなくなってしまった。仕方なく、仕事に復帰するまではほとんど実家にいた。でもその一年くらいである。

そして私の仕事復帰から2ヶ月で父は膵臓がんになった。

それでも私は実家とは距離を取り続けた。そして父は逝った。義務感すら感じることなくただ機械的に、聴力がだいぶ落ちてきた母を喪主に据えた葬儀一切を取り仕切ることもしたが、既に私にとっての父は、ただの血の繋がった人間だった。

父は暴れたり暴言を吐いたりするわけではなかっまけれど、尊敬できるところも、嬉しいことをしてくれた思い出もあまりない。嫌なことを外に出さないかわりに、好意ですらも外に出さない人だったと思う。私はそういうところを弱虫だなと思ってしまう。

唯一父とのつながりとして思い出されるのは、音楽だ。
父は弱虫で繊細でミーハーだった。コピーライターとして新しいものを積極的に取り入れたがった父は、私の思春期頃にはやった音楽、それは小室哲哉であったりミスチルであったり、その界隈を積極的に聴いていた。車通勤だった父は、ラジオでそういった音楽を聴いてはレンタルしていたのだと思う。そして私にも、それをダビングしたテープをくれた。その時期に私はアホのような量のマンガを書いていたのだけれど、マンガを書くときのBGMは常に父がCDレンタルショップで借りてきてダビングをしてくれた、日本のヒット曲だった。

その後、父親よりも音楽狂いになった娘が、自分が買ったCDを父にダビングするようになっても、私は父と同じような曲を聴くことが多かった。最後にダビングを頼まれたのは、10年以上前になるだろうか。BUMP OF CHICKENの「supernova」だった。かなり気に入ったようだった。

その頃もう父は仕事にも何にも疲弊しきって、それでもなにかになりたくてもがいている様子だった。

そこから先、新しいもので彼の琴線に触れるものがあったかどうかは分からない。そもそも私の趣味も、父からの影響よりも、その他のものからの影響の方が大きくなっていき、私と父の血縁以外のつながりはこうして失われていった。

でも、「supernova」にある、「君との歴史」が私と父にもあるのだとすれば、それはおおむね普通の父娘の歴史のうえに音楽がのっかっていたのだと思う。
父がいなくなったあと、文章を書きながらそれを思い出した。




なんかごめんおとうさん、葬儀の時さ、globeとかかけたらよかったよね、他に思い入れとか好きだった曲があったのも知ってるけど、そして私は来世もあの世もないと思っているけれど、浮世を卒業していくおとうさんを私から送るには、歌詞の内容とかは全然合わないけれど、二人でたぶん一番聴いたあのglobeの「DEPARTURES」がいいんじゃなかったかなって、終わってから思った。ごめん。