真理に到達する為の【核心】を(ぼちぼち、と)突く

皆さん、こんにちは。

『奇跡講座』の学びと実践を通して「真理」に到達しようと決めている人のひとり、Sakieです。

「真理」に到達する、、、の

「真理」

この言葉は、「the truth」という英語表現ではなく、日本語にすると、「真実」では、そのニュアンスとはやはり違うので「真理」がいいのですが、このワード、少なくとも私の年代の私のような一般人にとっては、

オウム真理教の事件は、

語弊を恐れずに書くならば、「真理」というと、とても禍々しいもののように扱われているワードのひとつのカテゴリーに固定されるきっかけであった、と感じています。

日本には、出来るだけその話は避けようとするような風潮さえ、あれ以来、蔓延っているようで、空気を読むことを大切にする日本人に対して、更に根深く、拒否感、拒絶感をもたらしたのではないか?と私は個人的に、考えています。

ゴーイングマイウェイの1人時間を愛する、昔から変わっている人扱いに慣れている個人の私でさえ、たまに、『奇跡講座』の学習やシェアは程々にしろ、なんて身近にいる他者から言われますが、私は専門家なので、程々にはしません。

親からも普通の幸せを生きて欲しい、普通に生きられないか?と言われたことがありますが、

、、、私は至って普通に生きています。

親の期待には応えていないかもしれませんが、そこそこ、平凡に、普通に、暮らしています。

極めて個人的で内的な[赦しの実践]を大切にしている、真理への到達、解脱を目標にしているただの人です。

ただ、真の幸せを求めて、考えていることと、行動を一致させていったら、「起こることが起こっている」だけ、ある一定の人々の望む通りにはならなかったとしか、言い表しようが無いのです。

7年前に離婚をしましたが、その経緯には、私が人生の目的を「真の幸せ」に変えた事がかなり関係しています。

何でもすぐに「もうわかった!わかったから続ける意味はない!辞めます!」となっていた私が、唯一にして初めて!三日坊主ではなく、一途になる瞬間が訪れました。

逆に言うと、そんな一途なもともとのキャラクターである自分自身に対して、自己防衛から心に蓋をして、私の個人的なキャラクターや趣味趣向を、変えようとする方が自我なのです。

ACIMシンフォニーのもりGさんから、「個人セッション」で教えてもらった例えを引用するなら、

他者に不平不満がある時、ニャーとしか鳴けない猫に、ワンと鳴け!と言っていることと同じくらい愚かなことをしていることになるのです。

猫(Sakie)はニャーとしか、鳴けません。

私(Sakie)をワン!と鳴かそうとする人の近くには、私は、なかなか長時間は居れない、罪悪感なく、それだけの理由なだけ、なのです。

〇〇な方が私(Sakie)らしいとか言われたりしますが、それも、相手のフィルターを通っています。

もちろん、その事に反応するならば、私が[赦しの実践]をするだけ、だと言うことは重々承知の上で、この後の記事を書き進めていきますね。

私の年代にとっては、日本中を震撼させたオウム真理教の教祖の指示の下に信者が起こした事件によって、「真理」という言葉のイメージは、更に題材にしたくない人を増やし、とても怪しくカルト的な宗教や、カルト的な洗脳のイメージが付き纏うような、何とも眉唾なワードのひとつになり下がってしまっているとも思います。

たかが「真理」という言葉ひとつなのですが、「真理」という言葉の、真の名誉回復を試みていきたいと思います。

もちろん、それは、「真理」という言葉に投影した、私自身の赦しの実践だと思っています。

お付き合いくださる方は、良かったら、お付き合いください。

私のここまでの「真理の探求」実践において、求道者として、世界から受けたように思う迫害のストーリーは、ドラマにしようと思えば、多々あります(笑)

ここで動揺して、イラついたり、論破したくなったり、実際に議論したり、してきたことは、今思えば、青かったな、赦しについて正しく理解しておらず、故に、全く、赦しは実践してなかったな、と思います。

実際に、赦しを実践するならば、今時点での他者の考えや「真理」観、『奇跡講座』観は、ある次元では、どうあってもOK!みんな最善を尽くしていて、今のタイミングでは、それが一番いいんじゃないの?それぞれの正解がある。道の途中だもの、みんな[聖霊の思考体系]をいつかは選ぶ決断をすることも出来るという意味に置いては、同じ。[真の知覚]を知覚する可能性と決断の力を実はみんなが持っているという意味において同じ、そこには差異を見ない、となりますし、そういう意味において、私の個人の利害は、相手の利害と一致しているという次元において、また、この世界で何かを達成することは必要ないという前提において、他者に対しては、結果的に、全てを受け入れようとする姿勢と、許可という意味に置いてさえ、相手が余りにも自分自身を傷つけるような行為をしている場合を除いては、苦しんでいることを選んでいる相手さえ、尊重することが出来るようになります。

そういう意味において、相手も苦しいんだから、思いやりを差し出そう、親切にしよう、親身になろう、と思うようになり、とても親切になりますし、同時に、理性的にもなる、と言えます。

[内なる平安]のみが、[原因]レベルで「赦しの実践」がなされた時の効果効能といえる、唯一の約束された[結果]です。

つまり『奇跡講座』学習と実践における効果効能は、

「内なる平安」の達成です。

真の知覚でこの世界を実相世界として知覚している状態、感謝、愛を実感している状態。

限りなく実相に近いものを知覚しているので、恐れや不安や罪悪感が癒されている状態。

そんな時に自分自身の周りの状況や、人生のように思えるものが、充たされてるような、好転したかのような幻想を見ることは、ありますが、必ずしも、この世界に具体的な変化などは無いこともあります。

というより、ストーリー自体はもう描かれたシナリオなので、それをどう知覚するか?好転したように知覚しているのです。

私は、赦しの実践をして、聖霊の心眼(ヴィジョン)で眺めている状態の時は、人間関係に置ける距離感について、完璧に掴めているような感覚があります。

出過ぎず、引き過ぎず。

相手の愛を求める呼び声に応えて、真の願いを叶えることのみにフォーカスしています。

[内なる平安]以外には、この世界における何の見返りや報酬も求めず、個人的な願望が完全に脇に置かれる時、何をどう考えて行動していくのか?自分自身の次の一手、次の一挙手一投足について、優しく見守っていますが、安堵していて、何の不安も心配もありません。

恐れや怒り、罪悪感と共に居る事への免疫力がついてくれば、恐れは妄想で、望んで見ているとはいえ、望んで幻想を見ていただけということ、無であることに気づきます。

その恐れや怒り、罪悪感を直視した向こう岸にあった愛の現存を認識します。

自分が「この後に何をしでかしてしまうのか?」「また、自分や他者を傷つけるのか?」と、自我の肉眼の目が自分自身を看守のように裁きと咎めありきの教師となり見張っていたような視点が、聖霊の心眼を通しての慈悲の、慈愛の視点で慈しみ、見守るような感触になっていきます。

私たちは、自分自身を見つめるように、他者を見つめています。

自分自身を見つめるように、この世界を見つめています。

自我は、攻撃性を持った個人の強さの特別性の主張をして出過ぎるか、同じく攻撃性を持った自己防衛で個人の弱さの特別性を主張して引くか、私達は、常々、駆け引きのシーソーゲームで、そんな愚かなことばかりします。

[特別な関係]に置いては、全ての関係が、そうです。

『奇跡講座』には、全ての関係は、[特別な関係]から始まる、とはっきりと書いてありますし、おさらいですが、それ自体は、問題ではなく、その事を「自我との同一化」をして、深刻に捉えたことが問題でしたよね。

私たちは、気晴らしをしながら、気を紛らわしながら、自分を誤魔化しながら、無益な時間の旅(だけ)を続けていくのか?

唯一の有益な事=[赦しの実践]を(ぼちぼち)していくのか?

自分に優しくは、忘れずに、、、

「何の為のものか?」を自分に問いかけること

「私は何もわからないし、知らない」というスタンス、姿勢、在り方を崩さないように努めること

誰のことも攻撃しない、傷つけない、責めない姿勢でいること、(もちろん!自分自身のことも攻撃しない、傷つけない)

実践において思い出していくことはたくさんありますが、まずは、原因のレベルでの努力と、結果のレベルでの努力は、別々にスタートします。

原因のレベルで、真に実践することを習慣化するほどに心をトレーニングするには、無意識のうちに実践していたという位のレベルになるには、相当な実践への専心と、葛藤と動揺を感じる、真理への「抵抗」が顕になるような時期を通り越し、更に深い理解へと進み続ける、トレーニングを続けていく必要があります。

さて、下記は、今回、noteに搭載されたAIが提案してくれた今回のタイトルに対する構成ですが、とても興味深く感じたので「近道」について、採用しました。


  1. この記事で紹介する真理への近道とは?

  2. 現代社会における真理の価値とは?

  3. 真理への探求力を高める具体的な方法とは?

  4. 真理に到達した時、人生はどのように変わるのか?


  1. この記事で紹介する真理への近道とは?

「近道」を探そうとしている時点で、完全に、時間と空間を信じていることになり、答えのない質問、コンセプトとなりますが、敢えて答えるならば、その道に王道は、あります。

私のここまでのプロセスからいうと、「早く悟りたい!」「早く楽になりたい!」「今世で解脱したい!」という時は、なかなか実践を「とにかく、今、しよう」とは、なっていませんでした。

とにかく、下手くそでいいから、こけて失敗したりしながらも、JUST DO IT!だよー!それが何より早くに上手くなるコツ!だよー!と、私がいつも云うのは、体験的実践的理解からしか真には腑に落ちない、習得はされないからです。

だから、シンプルに、私たちに唯一の近道があるとするならば

「(自我の思考体系を無意識のうちに選んでいる今、私たちが考えていること、信じていることは何なのか?という)誤り(誤った考え、信念)を直視すること」

つまり

「自我との同一化をしている今この時点で私が動揺する為に役立っている、間違った考え方を直視すること」

“looking  a error”

を、今すぐここでする事だというのが、私の考えですね。

皆さんは、何を近道だとお考えでしょうか?

この後のステップである、訂正、取り消しの働き、機能は、聖霊の役割であり、自分(自我との同一化をしている時の、心の自覚を忘れた私たち)でやらないことです。

赦しの実践において、私たちに出来る唯一の意味のある有益な努力は、すべき事は、そこだけです。

怒り、恐れ、罪悪感に代表される動揺、気持ちの悪さをきっかけに、スルーさせず、気づいて、直視すること、咎めず、裁かずに、見ること、だけです。

近道かどうか?時短になるかどうか?というより、赦しを実践するという霊性の道という王道を行けば、今、ここで、実相世界へ到達することは可能であると言えます。

自分の真の目標、ゴールへの真っ直ぐな道のあるところを、真っ直ぐに歩くという、何ともシンプルな事が、何より難しかったりしますが、ね。

私たちは、みんなが、王道を踏み外したい、という根本的な自我の思考体系による欲求と密かな願望を持っているということを先に知的理解として、知識として、知っておくことは、これがそういうことか!と、体験的な理解へと進む上で、本当に役立つと思います。

まとめると、近道は無いけれど、真っ直ぐ寄り道なしに進むことは、簡単ではないけれど、理論上は、可能だ、と言っていいと思います。

ただ、私たちの実践レベルにおいては、トレーニング中、寄り道しながら、気晴らししたり、気を紛らわしたりして休憩しながら、コツコツと淡々と、自分にも他者にも優しく進む柔和なレッスンになるでしょう。

AIが考えてくれた構成、また、タイミングで、解説していけたらと思います。

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