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げんじつてきな詩

1. まきこむ

昨年7月ミュンヘンで、屋外展覧会に参加した。1972年のミュンヘンオリンピックの50周年記念として、オリンピックパークで行われたイベントの一環である。そのときに、他のアーティストの「The Games Must Go On」というパフォーマンス作品を見た。この作品は1972年のオリンピック中に起きたテロ事件を基にしている。パレスチナの武装組織により、イスラエルのアスリート11名が殺害された。「The games must go on(試合は続けなければならない)」は、当時のIOC会長がテロ犠牲者の追悼式で発した言葉だ。初夏の公園内をきらきらとゆく人たちに混じって、その言葉をメガホンで繰り返しながらどこかへ歩いていく人がいる。よくみると湖を取り囲むようにそんな人が何人もいる。遠くで古いテレビ放送の音が聞こえる。じーじー。音楽が聞こえる。(試合は)水の音が聞こえる。さらさら。(ならない)きらきら。あはは。(続けなければ)ちゅんちゅん。

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来週アキラ・タカヤマのオペラがあるよと言われたので、オペラなんて見たことないのに、日本人の名前だ、と安直に思って行くことにした。Our Songsというその舞台にはフランクフルトに住む50人以上もの人々が一組ずつ入れ替わりで登場し、彼らの言語で詩を読んだり、歌を歌ったりする。会場で渡された冊子には、登壇の順に、簡単な自己紹介と言語と詩や歌の内容が載っている。ドイツ語、スウェーデン語、タミル語、アラビア語、韓国語、英語。壇上にあるのはマイクだけで、ほかに装飾はない。息を吸い、吐き、言語なのだろうという音声を出す人たち。プログラムには4時間の上演で出入り自由、と書いてあった。途中、それにしてもやけに出入りが多いな、と思っていたら、さっきまで壇上にいた人が隣にいた。隣にいた人が壇上にいた。上演後には客席で祝い合う演者たちがいた。

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授業で、ティノ・セーガルの「This Situation(この状況)」という作品をみんなでやってみることになった。演者は6人いて、部屋の壁際四面に1人、1人、1人、3人と立つ。鑑賞者が部屋に入ってくると6人は「Welcome to this situation(この状況へようこそ)」と声を合わせて歌うように言い、大きく息を吸う。演者たちは壁に沿って移動し、隣の壁の前であるポーズをとって静止する。そのうち1人が、一節の引用文を口に出す。「1973年、誰かが言った。変化は世代交代から生まれる」。演者たちはゆっくりと動きだし、それについて自由に会話を始める。「1973年?誰の文章だろう」「政治の話かな、大体合っていると思う」「いま中国でも、変化を起こそうとしてるのは若い人だよね」「世代が変わらないと変化は起こらない?」「それじゃ遅すぎることもある、環境問題とか」会話の最中、不意に1人が部屋の中心にたたずむ鑑賞者を見つめて聞く。「ねえ、あなたはどう思います?」

2. まわる

ドイツに来てから多和田葉子さんの小説を何冊か読んだ。ことばの跳躍、河川のような文章、密やかなひとの出入り、ピントの移り変わり。演劇のようだ、と思い、調べてみると戯曲も作られていた。演劇と詩の場面転換は似ている気がする。人やモノや単語を軸に、周囲がぐるんと変わる。軸になるものたちはそれ以上分解しようのない実体で、大きな物語や意味というのは、それらの後にしか生まれない。今ここ目の前にあるものを見ろ、読め、見ろ、読め、と言われる。

そうすれば世界はぐるんぐるんと回るでしょう。

3. 言説

そういうようなことが、この半年くらいにかけてあった。最近読んで目にとまった文章の引用を残しておく。

伝統的には(...)質問が正当であるためには、「人生の意味とは何か?」や「世界は高度な知能によって創造されたのか?」というような文法的に正しい文章の形式をとらなければならないと考えられていた。明らかにこれらの質問は、哲学的な教えや科学理論、もしくは文学的な物語といった、文法的に正しい言説によってのみ回答可能であり、回答されなければならない。
グーグルは、文法を超えた単語の寄せ集めとして機能する単語の集合体へと言説を変えることで、あらゆる言説を否定する。この単語の集合体は何も「言わない」。(…)したがってグーグルは、文法の鎖、文法的に規定された単語のヒエラルキーとして理解される言語への従属から、個々の単語を解放することを前提としている。

ボリス・グロイス「流れの中で」
10章 グーグル  p183

グーグルのリサーチ・ディレクター、ピーター・ノーヴィグが言うには、「モデルというモデルは、誤謬なんですよ。モデルがないまま優れた成果を得ることも、可能になってきています。」『ワイアード』のクリス・アンダーソンに言わせれば、その理由は「データがふんだんにあれば、数字が自らの存在を証明する」からである。(…)
こうして、相関関係やパターンが新たなモデルとなる。そしてこのとき原因と結果に代わるのが、相似や類似性なのだ

ヒト・シュタイエル「デューティー・フリーアート」
12章 あえてゲームを(またはアートワーカーは考えることができるか)p289

批評は、言い換えれば、ユートピアのすべての限界を持っている。それは、この世界の向こう側にある世界の確実性に依存しているのだ。これに対して、構成主義には、向こう側の世界はない。それはインマニエンス(内在性)に他ならない。

ブルーノ・ラトゥール ”Compositionist Manifesto” New Literary History p475
DeepL翻訳

科学研究やフェミニズムの理論が何度も何度も証明してきたように、物質という概念は、(...)あまりにも政治的で、あまりにも擬人的で、あまりにも狭い歴史的、あまりにも民族中心的、あまりにもジェンダーの要素が強すぎるのです。共通の世界を構成しようとするならば、物質的な世界について、もっと物質的で、もっと俗っぽく、もっと内在的で、もっと現実的で、もっと具体的な定義が必要なのだ

同上 p484 



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