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農芸化学における分析と、作ることについて

ラヴ

0. まえがき

この文章は、農学を学んでから芸術をやっていてよく聞かれる「なんでそうなった?」に、答えようと思って書いたわけではないのですが、答えるかもしれないものです。大学時代の友人知人に説明する気持ちで書きました。


1. 「サイト・スペシフィック」

現代美術に触れるようになって、サイト・スペシフィックな作品、というものを知った。これはその名の通り、ある特定の場所に展示されることを想定して作られる作品で、見た目や作られ方などの作品の要素は、その場所の文化や歴史、環境が考慮される。

個人の意見だが、かっこいいサイト・スペシフィックな作品は「作ったというよりもそうなった」という感じがする。この感覚を、土壌学を勉強したことのある人間っぽく説明してみる。

光景をうむもの

ある種の人間は、運転中に道路脇の風景を見ておもむろに「ここは酸性土壌だね」などと言うことがある。ふつう土壌の酸性度は水溶液を作ってからpHメーターなどを使って測るのだが、見た目だけでわかることも多い。例えば花の色を見る。土壌の酸性度によって、金属イオンの土壌への吸着度、つまり植物にとっての吸収のしやすさが変化する。アジサイが有名だが、アルミニウムイオンの有無で化学物質の構造が変わり、花の色は青や赤になる。

ある場所に生まれる光景は、「そこ」がもつ限りない情報の、瞬間的な産物である。先の道路脇の花は、然るべき理由があってその形で、色で、大きさで、そこにあった。その理由は、直近の周辺の生育環境や人の介入に止まらず、スケールを小さくすれば細胞や分子機構、大きくすれば地球や宇宙の誕生まで辿ることができる(さらに観察者である自分の目や脳、肌…となるけれど、認識の話まですると大変なので、一旦置いておく)。

内側の自然

サイト・スペシフィックな作品は、その場所に散らばっている無数の情報の中から、作家が選んだものを手繰り寄せて生み出される。それは一見、ある草花が生えるということよりも、因果がはっきりせず無秩序で、作為的かつ人為的である。しかし「選ぶ」「手繰り寄せる」という行為は、ある個人の歴史に基づく判断の上にある。自然に作られてきた個人の意識や身体感覚、内臓感覚が、深く顧みられた上で生み出される何かというのは、ほとんど自然に生えた花と同じレベルで自然である。おのずから、そうなのである。

土壌学はある事象の説明のために周辺の状態や歴史を観察するが、美術では創造のためにそれがなされる。その場所、時代、社会、そして作る人間と観る人間の観察が十分にされることで、情報を「選ぶ」判断基準と「手繰り寄せる」方法が洗練されていく。かっこいい作品の「作ったというよりもそうなった」感じは、そこにある世界をどこまでも誤魔化さずに観察した結果だと思う。


2. 画一的な観察と制御(から生まれる複雑さ)

延々と続く農地の間を車で走りながら「原生林よりも農地のような、多少人の手が入った自然の風景が好きだ」という話になったことがある。わかるような気もした。短冊のように土地を区切ってさまざまな作物を植えた結果、左右前後でくっきりと色の違う景色が続く。

そういえば私は、センターピボット式灌漑をする農地の航空写真が好きだ。Googleでセンターピボットと検索すると、候補に気持ち悪いという言葉が出てくる。自然が幾何学的に分けられている光景は、多少グロテスクでディストピアのようでもある。それはおそらく、複雑なはずの地表が画一的に制御されているからだ。しかし、そういう不穏で不安な感じのそばに、ある種の、「がんばってるなあ」という感じの、美しさがある。それについて考えてみる。

わかっている複雑さ

作物の生育に必要な諸要素は、生物学と化学の発達により明かされてきた。種子の発芽に必要なのは水分と酸素と適当な温度で、植物の成長にはさらに、チッソ・リン・カリを筆頭に17種の元素が必要である。土地に、水や肥料など、作物を育てるために足りない要素を与えることで農業は行われてきた。実は土すらも要らないので、必須栄養素だけを含む液体で作物を育てる方法もある。このような方法の場合、最適な状態にするために足りない要素を知り、それを注ぎ足せばいいので、自ずと観察と制御は画一的になる。

一方で、農学は環境学と徐々に接するようになり、作物を構成する要素を考えるだけではいられなくなった。作物は、周囲の環境にどのような影響を与え、与えられて育っているのか。持続可能性という文脈から、土地の生態系が注目されるようになった。無機物質だけではなく、作物生育に関わる多種多様の生物(昆虫や微生物、他の植物など)と有機物質の研究が進んだ。結局、全く土壌がないという場合以外は、作物を育てる施設を1から作るよりもその土地にあるものを活用する方が安価かつ簡単なので、極めて合目的に設計された自然農法というものが生まれつつある。

このようにして作物栽培は、画一的な観察と制御の元で大きく進化した一方、場所固有の(/「サイト・スペシフィック」な)複雑さとの関係も見直されるようになった。冒頭に戻り、人の手が入った自然について考えてみると、そこにはこの画一性と複雑さが同居している。土地をある目的に合わせて制御する努力があり、それなりに整った結果が生じるのだが、その風景には考慮し切れない単純な因果関係にあるものたちが紛れ込んでいる。土地の複雑さは、制御が入った分増大している。それを面白く、美しく、ある意味正しく、感じるのではないか。

居直させる

長々と農業の話をしたが、近代科学とともに作り上げてきた現代の社会には、似たような状態がどこにでもある。画一的な観察と制御を可能にしているのは技術であり、その技術は作物だけでなく、生活や社会全体を制御して、人の幸福(?)に足りない要素を注ぎ足す。それはつまり、自動車であり、コンビニエンスストアであり、スマートフォンであり、ネットショッピングである。光景には単純な繰り返しが生まれる一方で、場所固有の複雑な条件の結果がどうしようもなく溢れ出たり、残されたりする。

そういう必然的な綻びや汚れは、効率的な営みのために通常速やかに片付けられるが、様々な方法で「居直させる」こともできる。例えば記録や模倣や整頓などの介入、そのような作品によって。そうすることで、快適で幸福で不穏な生活の中にある、どうにもならない美しさを見ようとする。どうにもならない美しさと共に、生活に挑んでいく。


3. 並列的な時間と空間

環境というつかみどころのないものを捉えるために、画一的な観察は非常に役に立つ。ただそこにある状態を、名前のついた物質や現象に分けて、数値として記録し、整理することで、比較ができるようになる。比較ができるようになると、別の時間や空間を網目のように繋げたり、層のように重ねたりすることができる。

観察による点

「北海道と九州とオーストラリアとインドネシアを比べましょう」とか「50年前と今日と50年後を比べましょう」とか言われたら、何を?となってしまうが、「〜の年間平均気温を比べましょう」とか「〜の土壌の色/粒子/pH/炭素量/微生物叢etc.を比べましょう」であれば取り掛かりやすい。もちろん実際は分析の方法や精度云々の問題があり、そう簡単ではないのだが、それでもぼんやりとした環境なるものどうしをつなぐ点にはなる。

自然科学という枠組みを超えて、ここでいう「環境」を一番広い意味で捉えるならば、それを知り比較するための「点」はなんだってよくなる。色でも匂いでも音でも形でも動きでも、なんなら自分の感情でもいい。個人のレベルでは人は無意識にこういうことをしている。例えばある匂いを嗅いである光景を思い出すことは、匂いという点によって、個人の過去の経験が集合して現れている状態である。

しかし観察によるデータがすごいのは、この個人性から抜け出せることである。とりわけ発達した科学技術を用いた観察は、人間の知覚からも抜け出そうとする。

科学と技術は、目に見えないくらい小さいものも、止まって見えるくらい速いものも、数字にしないと存在すらわからないものも、観察できるようにしてきた。同時に、膨大なデータを保管して必要に応じて取り出す方法も、データを元に状態を再現する方法も作ってきた。その発展を支えたのは、社会の画一的な制御への要求だったかもしれないが、始まりはきっと好奇心だろう。「自分の身体で一生のうちに経験することのできない、しかしこの世界には存在しているらしい時間や空間や物事に、その片鱗に、触れられるのならば、世界はどう見えてしまうんだろう?私はどうなってしまうんだろう?」という。

自分で点をうつ

現代の生活には、画像やら文字やら数値やら、つかみどころのない世界に打たれた点としてのデータが溢れていて、自分でそれを増やすこともできる。その点は、今ここを快適に過ぎるために使うこともできるのだが、いくつもの時間と空間をいろんな方法で手繰り寄せるために使うこともできる。世界を手繰り寄せた実験や作品は、過ぎていく今ここを相対化し、比較できるようにする。それは今ここにとっての、警鐘にも救いにもなる。

この皮膚で感じる温度は、あのマグカップであり、9000km先の地表であり、1000年後の故郷である。今日撮った空の画像の色は、イタリアのワインであり、フクロウの眼であり、1億年前の海である。この物体の回転は、月の軌道であり、ATP合成酵素のモーターであり、盆踊りの輪である。

そういうことは、私個人にとっては救いのような気がする。デジタルなデータはその絶対さ故に無慈悲に、というか無邪気に、情報をつなぎ合わせる。つなぎ合わされた結果は私に、生の無意味さとかけがえのなさは同じことであり、結局私はどこにもおらず、どこにでもいるのだと思わせる。生きるならばその経験が欲しくて、作っている。


2022年5月


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