見出し画像

おもてとうらとごじあい


道を歩きながらのこと。

ものごとには表と裏があるなぁ。

生と死、男と女、光と闇、、、他

わかりやすく反転してるもの以外のことにも、
表と裏は存在するのだなぁと思ったこと。

例えば、出会いにも表と裏があって、
人にも表と裏が、言葉の中にも表と裏がある。

初めは素敵な出会い(表)と思っていても心が傷つけられて、
その出会い全部を悪く思った時、裏になってしまう。

逆になんでこんなから始まった出会い(裏)がいつしか心地良くずっと続いていたりすると、表になっている。

ここでの(出会い)という言葉を(人)に置き換えても同じ。

だからと言って、これらのテーマが
良と悪と表現するのはちょっと別な気がして、
表と裏と表現してみた。

シェイクスピアさんの有名な言葉、

There is nothing either good or bad,
but thinking makes it so.   - Shakespeare

物事によいも悪いもない。
考え方によって良くも悪くもなる。 - シェイクスピア


何事も考え方次第なんだなと思わせてくれるこの言葉から、先の表と裏の話、好きと嫌いの表と裏。

人の嫌な部分を見た時というのは、その人の後ろ、
見えなかった背中が見えただけではないのか。

最初の出会いで正面が見えていた時、背面が見えない。

最初の出会いが背面で顔が見えない時、正面がどんなものかわからずなんだこの人はと思ってしまう。

人の好き(良い)な部分も嫌(悪い)な部分もその人には持ち合わせていなくって人(存在)は完全なもの。

ただその人を捉えた私の観方がそうだっただけ。

考え方次第というのは観方のことなんだなぁ。

この気づきを最近の私は自分に向けて声をかけてあげるようになった。

どうして自分はこんなこと言ってしまったんだ、書いてしまったんだ、やってしまったんだ・・・と自分を責めてしまう癖からどうしても抜け出せない時、

そんな時こそ落ち着いて反省よりも内省をしてみる。
起きてしまった事にではなく自分の中にベクトルを向ける。

そうすると、悪いことだとわかりつつある行動や言動を裏(闇)と観ると、自分のこんな気持ちを守りたかったんだなという、何よりも自分を大切にしたいと想う表(光)があることに気がつけた。間違った仕方だったかもしれない、でもまずはそんな自分自身を、背中にまで手をまわしてギュッと抱きしめるように受け入れてあげる。

じゃあなんとなく心が認めてもらえたような気がしてきて、いつの間にか心がすーっと落ち着いてくる。

もし、嫌な言葉を言われたなと感じた時、
ズキっと傷ついたんだよね、と認めてあげたのち、なんでかな?と聴いてあげる。そうするとこうこうこういう気持ちがあって!と守りたかったものを教えてくれる。

もしかしたら守りたいものは手放さないといけない闇かもしれないけど、まずは受け入れてひっくるめて抱きしめてあげることで初めて自分を愛することができ、悲しむ闇も救われたと微笑んで光になってくれるのではないか。自分を救えるのはなにより自分自身なのだと。

これが本当のご自愛という言葉なのかなぁなんて。

ご自愛ができた時、傷つけられた嫌だと感じた言葉、
一見は闇の顔をしてやって来た言葉というのが、
光であったとわかった時、光になり、愛おしく思うことができる、すると心から感謝の気持ちがめきめき生まれてくる。ギュッと抱きしめてくれた自分と、闇をあぶり出してくれた光と、光を生んでくれた闇に。これは全部内側のことで、外側としては、この言葉に対して、この言葉を言ってくれた人に対して、出来事に、全てのものをひっくるめて愛することができた時、闇は光の世界へ昇華されていく。

嫌いな部分も受け入れたのちに好きになれたら、
きっと好きなものを好きでいるよりも、感謝の気持ちが湧き上がってもっと好きになれる。するとなにものにも良いも悪いも存在しないとわかってくるんだろう。

と、ここまで書いた話も、今の私の観え方。
誰かにとったらそうでないとも捉えられるもの。
その判断にも良いも悪いも存在しないもの。
確かなことは、今までの出来事、出会い、人、言葉、全てに感謝できてる今の私がいるということ。
ただそれだけで充分なんだという気持ちでいること。

人に押し付けないという綺麗な姿勢を目指して。
整えていきたいなと思う自分の軸と、
「ありがとう」を忘れないようにしたい。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?