休職10ヶ月目のよしなしごと
「伝えたいことがある人」のことがうらやましかった。
唐突に、わたしが音楽をやっていた頃の話をするんだけれど、わたしに足りないものはいつだってメッセージ性だった。ずいぶん前にも、そういうことをたしかnoteに書いたことがある。そう思って遡ったら、なんと2年半も経っていた。
いま読み返しても同感した部分を、少し長いけれど抜き出しておく。
一緒に音楽を学んでいた人の中には、わたしと同じように伝えたいことが定まらない人もいて、そういう人は、「何を伝えたいか」という話題になると、うわべでそれらしいことを器用に述べていた。でも、そこに本心がないことは、残念ながら見たらわかる(厳密には見たらというより、演奏を聞いたら、かな)。むしろ、伝えたいことを持っている人ほど、言語化はできていなかったように思う。そういう人は言葉にしなくとも、ちゃんと音楽で伝えていたから。
だからこそわたしは、伝えたいことがある人たちに擬態し、そうした一切の話題に口出しせず、演奏することだけに意識を集中させた。その結果として、自己満足の演奏が長きにわたって続けられてきたのだと思う。
年月というものは、おそろしい。
あんなにも打ち込んでいたものを、苦楽をともにしたものを、それしか見えないくらいわたしのすべてだったものを、「自己満足」という冷酷な言葉で片づけてしまえる。自分にそんな日が来ることを、わたしは到底、想像できなかった。
「努力は報われる」という言葉があるけれど、わたしはそんなにストイックに努力をするタイプではなく、でも、心のどこかで、それに近い感覚は持ち合わせている。「こんなに一生懸命にやってるんだしさ」などと口にしようものなら、そのあとには「いつか実るよね」というニュアンスの感情が顔を出してしまうものだ。
すべての敗因は、ここで言う「実る」とは具体的にどういうことなのかをわからないまま、”ただ頑張ってしまっていた”ことなのかもしれない。
そうやって「ただただ頑張るマシーン」と化したわたしは、音楽を離れてもなお、頑張るマシーンとして職場に尽くし、頑張れないマシーンに成り下がったのではないだろうか。
いま現在、長期の休みをもらっている仕事は、音楽とはなんの関係もない。でも、自分自身の取り組み方を振り返ると、音楽に対するそれと、なんら変わりがなかったのではないか、と思う瞬間がある。
仕事をやり遂げた結果として、自分はどうなりたいのか。なんのためにこの仕事をするのか。そういうことを無視して、目の前にある仕事をさばき続けてきた気がする。
雇用形態からして正社員じゃないわたしには、持つ必要のない目標や責任の方が多いかもしれない。そういうものは正規雇用の人材に任せておけばいいのかもしれない。
でも、だからといって、なんの指標もなく仕事に向き合うべきではなかった。
音楽をやるなら、伝えたいこと
それ以外の仕事をするなら、目標
そのどちらをも、わたしは持ち得ない。これから、どうして生きてゆこうか。
職場に戻れるように体調を調えることが目先の目標ではあるけれど、たぶん何の考えも持たないまま復職したら、頑張るマシーンの仮面をかぶった頑張れないマシーンによる耐久レースが始まるだけだ。
冷酷な現実。でも、逃げられない真実。
ふと、そんな風に思った。
外は雨が降り続いている。まるでわたしの心の中を映し出すかのように。
七志野さんかく△
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