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空に心を獲られる


 ベッドに身体を投げ出してぼんやり天井を見ていたら、レースカーテンに頭を撫でられた。
 微かに汗の浮いた額に、風が触れる。首を反らしてつむじの上にある窓を見た。空。
 ——夏雲。
 濃いな、と思った。アクリルの原色をぶちまけたみたいな色も、くっきりと彫られたみたいな輪郭も、存在が濃い。
 この空は違う。これは季節のための空だ。そしてその季節を楽しもうとする、生き物のための。
 ちゃんと生きてる、存在のための。
 首が疲れてきたから、顎を下ろして視線を戻そうとしたとき、視界の外から一羽のカラスが飛び込んできた。真ん中の、一際大きな入道雲を目掛けて飛んでいった。
 吸い込まれていくように、徐々に小さくなる。
 ああまずい、目で追わない方がいい。そう思ったから、首と視線を元に戻した。冴えない天井の景色が戻ってくる。
 たぶん——あともう一度行ったら。
 そこで考えるのをやめた。両足を振り上げる。反動で身体を起こして、小さな台所まで数歩。
 窓からの日差しが届かず薄暗い割りに、空気はじっとりと蒸している。冷蔵庫のドアを開けると冷気がひんやり流れてきたけど、暑さのわりに大した興味が湧かなくて、ミネラルウォーターのペットボトルをつかんですぐに閉めた。
 パキッという音と手応えが、ギザギザしたキャップの感触越しに伝わる。一気に喉に流し込んだ。
 口の中から胸にかけて、涼しさが広がる。が、頭の芯にはまださっきのカラスがいた。
 ——あと、もう一度行ったら。
 今度こそ空に心を獲られるだろうな、と思いながら、口の端の水滴を手で拭った。

  *

 去年の夏、空に心を獲られた。
 真夏だった。半分仕事で、半分は遊びで、東京目指して小さな格安旅客機に乗った。
 ひとり旅も、飛行機に乗るのも、別にはじめての事じゃない。だけど、いや、本当は前から感じてた。うっすらと。去年はたまたま、それを押し殺し損ねたんだと思う。
 一番窓側のシートで、底抜けに晴れ渡った、どこまでも続く果てのない雲海を見ていた。
 ふと、一瞬で。
 胸に風穴が空いたような、強烈な感覚に陥った。普段は開けないハッチを、間違って上空で開けてしまったみたいな。
 来てはいけない場所に来てしまった。
 何故か強くそう思った。
 同時に、感じたことがないほどの深い安堵が襲ってきた。
 ——ああ。
 ——帰りたくないなぁ。
 あっちに行きたい、とあまりに率直に思った自分に、本能的な何かが警鐘を鳴らした。それに触れちゃだめだ、と。
 最初から最後までずっと正気だったから、我に返ったという言い方はたぶん正しくない。その本能的な何かとやらに袖を引っ張られて、踏み止まったんだろう。
 果てのない雲海の向こうに、心が全部獲られそうになるのを。

  *

 たぶんあの日からずっと。
 たとえば、箪笥と壁の隙間の暗闇に。
 地下鉄が去った、穴ぐらの奥に。
 雨の日の、くすんだ水平線の向こうに。
 触れちゃいけない何かの存在を、ひたひたと感じながら、生きている。
 それはいつもすぐそこにあって、ふとした時にその端っこが、隙間の闇だったり、線路の奥だったり、雨の水平線だったりにひらひらと見える。そしてあの時と同じ感覚に陥る。
 そういう時決まって、ひやりと冷たい無数の針の先端で静かに背中をなぞられているように、ここから先を覗くのか?と、何かが警告を投げかけてくるように感じる。だからいつもそこで引き返す。
 引き返せるのは、獲られた心が全部じゃないからだろう。お陰で今もこうして生活をしてる。
 きっと人間は、あまり地上から離れちゃいけないんだろう。いや、地上というより、人が生きるべき場所、か。
 そこからはみ出した先に、触れちゃいけない何かがあると感じてしまっただけで、もう。
 帰り道がわからなくなった。

  *

 ミネラルウオーターのキャップを閉めて、シンクの上に無造作に置いた。
 時計を見る。午前十一時十五分、少し過ぎ。もうすぐ昼を食べに同居人が帰ってくる。そろそろ支度をはじめないと。
 暑いから、冷やし中華にでもするかな。
 また冷蔵庫を開けて、屈みながら麺やらハムやらを取り出した。顔にひんやりと冷気がかかる。
 あれ、きゅうり、無かったっけ。まぁきぬさやでもいいか。
 鍋に水を入れて、火にかけた。鍋底とコンロの隙間の暗がりを、ボッと青い火が埋める。
 ——隙間。
 黒。青。
 カラス。空。
 ——夏雲。
 まだ頭の芯にいる。小さくなって、入道雲に吸い込まれていく。裏側の目でカラスを追いかけて、表側の目で青い火の奥の暗がりを見てたら、ふわりとあの感覚が襲ってきた。
 ——ああ、ここにもいた。
 帰り道がわからなくなった、理由の半分は。
 たぶん、いつでも捨てられるんだ。
 もうすぐ帰ってくる人の悲しむ顔も、切り裂かれるような胸の痛みも、全部わかってて捨てられるんだ。
 自分勝手な、自分のために。
 だから、本当は帰り道を探す気が無いこともわかってる。あっちに行きたがってることも、わかってる。
 それでも。
 ——人をやめる事なんて、人と生きることより、ずっと簡単だから。
 簡単じゃない方を選ぶのが、どうやら今回の人生の宿題らしい。
 半分は空に獲られたまま、夏雲の向こうに置いてきた。
 だから残った心は、こっちに留めておくよう守らないといけない。もうすぐ帰ってくる人と、一緒に冷やし中華を食べるために。
 まぁ、きゅうり、無いんだけど。


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サムネイルのすてきなお写真は、企画主の空腹さんよりお借りいたしました

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